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<コラム>中國で創(chuàng)建されつつ終戦を迎えた日本の神社、石燈篭が無殘に殘る済南神社跡を訪ねて

工藤 和直    2018年8月11日(土) 0時(shí)10分

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済南神社は市の南郊外にある梁家莊(現(xiàn)?英雄山)に創(chuàng)建されつつ終戦を迎えた日本の神社である。寫真は筆者提供。

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済南市は山東省の省都で、かつての古代四大河川(長江、黃河、淮水、済水)の一つである済水(その河川は現(xiàn)存せず、今の黃河の湖底に眠る)の南側(cè)に位置したことから、済南と命名された。黃河は東周の都「洛邑」から大梁(開封市)を過ぎた辺りより南から済水、トウ水(トウ=さんずいに累)、河水の3本に分かれ東北方向の渤海に流れ込む。前漢の時(shí)代の大洪水によって済水は現(xiàn)在の黃河の流れになってしまった。細(xì)かく言うと、済南市から天津市の間には9本の河があるが、黃河は常に氾濫し、その川筋はその度に変わったというのが正しい表現(xiàn)となろう。春秋時(shí)代、黃河は一番北西寄りの天津辺りを河口とし、かつての済水は河南省済源市西北2キロメートルを源流とした。

その他の寫真

清朝も末期に至ると、帝國列強(qiáng)による植民地化が進(jìn)み、ついに1904年、済南府も開港させられ、 済南は急速に経済発展が進(jìn)んだ。1911年末には津浦鉄道の黃河大橋が完成し、済南府は南北交通ルートの重要拠點(diǎn)となる。翌1912年に中華民國が成立し、全國的に府制から道制へ改編が進(jìn)むと、済南府は當(dāng)初、岱北道に帰屬されるも、1914年には済南道と改稱された。1928年5月3日、日本軍と國民黨軍との間で済南事件が勃発する。

済南神社は市の南郊外にある梁家莊(現(xiàn)?英雄山)に創(chuàng)建されつつ終戦を迎えた日本の神社である。詳細(xì)な資料寫真は発見できていないが、英雄山路18號(hào)済南戦役記念館西門が當(dāng)時(shí)の參道入口で、ここから東にやや登りかけた所にある済南戦役記念館が本殿跡地になる(寫真1)。1939年(昭和14年)に建設(shè)開始され、殘された石燈寵等に刻まれた年號(hào)から1942年 (昭和17年)7月ころにはかなり完成したが、一時(shí)建設(shè)が中斷され1944年(昭和19年)に再開したが、翌1945年(昭和20年)終戦で未完のままに終わった。

境內(nèi)地は済南革命烈士陵園となっている。神社の本殿があったと思われる場(chǎng)所には、國共內(nèi)戦における共産黨の勝利を記念した済南戦役記念館が建っている。神社の鳥居、燈龍、石碑などに使用された石材が公園のー畫にまとめて置かれていた(寫真2)。鳥居の石柱と思われる2本が無造作に置かれ、その大きさ(約9メートル)からそれ相等に大きな鳥居であったと予想がつく(寫真3)。石燈籠の殘骸から寄贈(zèng)した人物の氏名が確認(rèn)できる(殘念ながら一部消されかけているが)。1つは、茨城県筑波町「廣瀬森次:寫真4?であり、もう一つは岡山県「安原順吾:寫真5」?長野県「山崎武源太:寫真6」と読めそうである。いずれも昭和17年(1942年)の刻印があった。まるで「兵どもが夢(mèng)の跡」の如き墓標(biāo)群であった。

■筆者プロフィール:工藤和直

1953年、宮崎市生まれ。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長として、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會(huì)社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會(huì)社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會(huì)を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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