日本にもパクリ大國(guó)だった「黒歴史」がある―中國(guó)メディア

人民網(wǎng)日本語(yǔ)版    2018年8月12日(日) 7時(shí)0分

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近代世界史全體を見てみると、「模倣品」製造は新興工業(yè)國(guó)が先進(jìn)國(guó)に追いつき追い抜くための「必殺技」となっており、今や製造業(yè)大國(guó)となっている日本でさえ模倣品大國(guó)だった「黒い歴史」がある。寫真は日本。

中國(guó)はこれまで、西洋諸國(guó)から「海賊版大國(guó)」、「模倣品大國(guó)」とのレッテルを貼られてきた。しかし、近代世界史全體を見てみると、「模倣品」製造は新興工業(yè)國(guó)が先進(jìn)國(guó)に追いつき追い抜くための「必殺技」となっており、今や製造業(yè)大國(guó)となっている日本でさえ模倣品大國(guó)だった「黒い歴史」がある。日本の経験から、「グレーゾーン」を歩んで、海賊版や模倣品を製造していると、短期的には利益を出すことができても、長(zhǎng)い目で見ればそれには限界があることが分かる?!改嵠贰工蜃鳏氍F(xiàn)狀に満足せずに、それをスタート地點(diǎn)として経験を積み、イノベーションに取り組むことこそが、「模倣品大國(guó)」から、「製造業(yè)大國(guó)?強(qiáng)國(guó)」へと進(jìn)歩する道であると言えるだろう。環(huán)球時(shí)報(bào)が伝えた。

■模倣に明け暮れた戦前戦後

近代、各國(guó)が工業(yè)化と現(xiàn)代商業(yè)社會(huì)に次々と歩みを進(jìn)める中、先んじた者が後から追いついた者を「模倣品」製造者と非難することはありふれた歴史における一種の現(xiàn)象であったと言える。例えば、18世紀(jì)末から19世紀(jì)中期にかけて、工業(yè)革命時(shí)代へと真っ先に歩みを進(jìn)めた英國(guó)の人々は、ドイツ人が英國(guó)の機(jī)器や商品を模倣していると叱責(zé)し、「ドイツ製」が「模倣品」の代名詞になっていた時(shí)期があったほどだ。しかし、その後ドイツは大規(guī)模な工業(yè)化を推し進(jìn)め、瞬く間に「模倣品」という汚名を返上した。第二次世界大戦前には、ドイツは、世界の全ての工業(yè)技術(shù)関連の特許をほぼ獨(dú)占するまでになっていた。また19世紀(jì)後期、明治維新を経た日本の工業(yè)は、西洋諸國(guó)と比べると依然として立ち遅れていた。短期間で列強(qiáng)に追いつくため、日本はまさに「物から制度に至るまで」の一切において歐米を模倣することで、たちまち「模倣品大國(guó)」という名を手に入れることとなった。日本商業(yè)史の研究者らも、20世紀(jì)初頭から第二次世界大戦前まで、日本は「模倣に明け暮れている」、「知的財(cái)産権を無視している」と世界から非難されていたと認(rèn)めている。もちろん、當(dāng)時(shí)はまだ知的財(cái)産権をめぐる世界統(tǒng)一基準(zhǔn)はまだなく、それがさらに日本の大々的な「模倣」に拍車をかけ、その責(zé)任を問われることもなかった。

「歐米に學(xué)べ」というスローガンの下、20世紀(jì)初頭、日本企業(yè)は次々と歐米企業(yè)をターゲットに研究した。例えば、東芝は當(dāng)時(shí)、視察団を米國(guó)に派遣し、米國(guó)ゼネラル?エレクトリックとの提攜を成し遂げた。そして、東芝は1930年ごろには日本で初となる冷蔵庫(kù)や掃除機(jī)、洗濯機(jī)といった家電商品を次々生産した。こうした家電商品は、その外観から內(nèi)蔵されている機(jī)能までゼネラル?エレクトリック製のものとそっくりで、商標(biāo)が貼られている位置まで一緒だったほどだ。當(dāng)時(shí)、東芝の技術(shù)顧問を務(wù)めていたゼネラル?エレクトリックの米國(guó)人技術(shù)者からは、「あなたたちには自主設(shè)計(jì)能力がない」と指摘されたという。こうして東芝は、「日本版ゼネラル?エレクトリック」の道を歩むようになった。日本の近代の自動(dòng)車工業(yè)も歐洲の模倣から始まっている。1914年、三菱重工が製造した日本初の量産型乗用車『三菱A型』は、イタリアのフィアットA3~3の模倣品だった。精密機(jī)械の面でも、日本企業(yè)は當(dāng)時(shí)の工業(yè)技術(shù)最強(qiáng)國(guó)ドイツに焦點(diǎn)を絞り、第一次世界大戦後に設(shè)立されたニコンは商品やブランドなどドイツカール?ツァイスを「コピー」したといっても過言ではない。

■ターゲットを絞った模倣

第二次世界大戦後の日本の製造業(yè)の復(fù)興に際しても依然として「模倣」をメインとし、その主なターゲットは米國(guó)となった。1950年代から、日本は米國(guó)に追隨するようになり、消費(fèi)財(cái)から最先端技術(shù)に至るまで「完全なるコピー」に徹した。さらに、戦後の長(zhǎng)い期間にわたって、日本の商業(yè)ブランドから社會(huì)文化に至るまで米國(guó)をその模範(fàn)としてきた。例えば、老舗食品メーカー不二家は1950年ごろに、マスコットキャラクター?ペコちゃんとポコちゃんを打ち出したが、それは、米國(guó)の食品メーカー?バード?アイの広告キャラクター?MerryとMikeのコピーだった。日本の漫畫が臺(tái)頭する以前、米國(guó)の漫畫が日本のアニメ作家にとっての「作畫モデル」となっており、戦後、漫畫界の巨匠となった水木しげるや手塚治蟲なども、キャラクターを考える際、米國(guó)の漫畫から発想を得たことが少なくない。例えば、水木しげるの漫畫「ロケットマン」は一見したところ、米國(guó)の「スーパーマン」と大差ないといった具合だ。

製造業(yè)の面では、戦後、日本企業(yè)、特に自動(dòng)車メーカーが歐米の同業(yè)者の「完全なるコピー」を行っている。戦後、日本の自動(dòng)車生産ライン上で製造された自動(dòng)車は基本的に歐米で人気の車種の「コピー版」で、「商標(biāo)」を変えただけのような自動(dòng)車もあったほどだ。

戦後の日本のテクノロジー発展はかなりの程度において「技術(shù)の模倣」頼りで、商品にそれを集中して応用していた。1960年代末のある調(diào)査によると、戦後の革新技術(shù)139件のうち、日本が開発した技術(shù)は、新幹線を含む5件だけで、基礎(chǔ)科學(xué)やオリジナル技術(shù)の面で、日本は歐米の先進(jìn)國(guó)と比べてパフォーマンスが劣っている。しかし、日本の外國(guó)の技術(shù)を模倣、吸収し、それを自分のものにする能力はどこの國(guó)よりも優(yōu)れている。

■模倣品を超える製品を製造

1970年代後半から80年代にかけて、日本経済が急速に発展するにつれ、日米の経済摩擦、戦略競(jìng)爭(zhēng)が激化し、米國(guó)は、日本に対して「技術(shù)を盜用している」という叱責(zé)の聲を高めるようになった。ある日本経済史學(xué)者は、「海外から猛烈な批判を受けたその『暗黒時(shí)代』に、日本はオリジナル製品の重要性を一層認(rèn)識(shí)するようになった。世界第2位のエコノミーに成長(zhǎng)していた日本は、模倣やコピーに頼って生きていくことはもうできなくなり、新たな技術(shù)革新が促進(jìn)された」と指摘する。そして、パナソニックや東芝などの企業(yè)は獨(dú)立した商品設(shè)計(jì)部門を立ち上げた。その後、バブルが崩壊し、日本経済は長(zhǎng)期にわたって低迷したものの、危機(jī)感を抱く製造業(yè)は、高度化の手を全く緩めず、「日本製」は少しずつ「模倣品」という汚名を返上し、世界で高い信頼を得るようになっていった。

1980年代、日本の経済評(píng)論家?森谷正規(guī)氏は、著書「技術(shù)強(qiáng)國(guó)」で、「日本は海外から商品?技術(shù)を?qū)毪废M(fèi)する『3等國(guó)』から、他の國(guó)の基礎(chǔ)科學(xué)成果を活用して新しい応用技術(shù)を開発する『2等國(guó)』、または『1.5等國(guó)』へと進(jìn)歩している。しかし、新しい分野を開拓し、新技術(shù)革命を牽引する『1等國(guó)』とはまだ一定の距離がある。日本は模倣で満足し、革新の歩みを止めることはできない。日本は、技術(shù)の精密化を図り、ユーザー體験を向上させ、モデルとなった製品を上回る新製品を作り出し続けることによって、『模倣』という思考を捨て去るべき」とつづっている。(提供/人民網(wǎng)日本語(yǔ)版?編集/KN)

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