人民網(wǎng)日本語(yǔ)版 2018年8月14日(火) 13時(shí)10分
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毎年、中國(guó)の內(nèi)蒙古(內(nèi)モンゴル)自治區(qū)の砂漠に「平和の友誼の種」を植えている日本人たちがいる。
1991年に設(shè)立された日本砂漠緑化実踐協(xié)會(huì)はこれまでに、1萬(wàn)2000人以上が自費(fèi)で內(nèi)蒙古自治區(qū)に赴き、約410萬(wàn)本の植樹(shù)を行う企畫をし、中國(guó)の砂漠化防止に積極的に寄與してきた。
中國(guó)の砂漠に300萬(wàn)本植樹(shù)した遠(yuǎn)山さん
北京から約600キロ離れた?jī)?nèi)蒙古自治區(qū)鄂爾多斯(オルドス)市にある庫(kù)布其(クブチ)砂漠の奧地に恩格貝という地域がある。27年前、そこは荒れ果て、土地は痩せ、約2萬(wàn)ヘクタールの土地には人の影もなかった。しかし、今はそこに美しい自然の景色が広がり、有名な生態(tài)観光地となり、多くの人が観光に訪れるようになっている。
この砂漠緑化の奇跡は、日本人の遠(yuǎn)山正瑛さん率いる日本人ボランティア數(shù)千人と切っても切れない関係にある。
遠(yuǎn)山さんは2004年2月に97歳で亡くなったが、1970年代初めから、中國(guó)の砂漠緑化の研究に著手していた。
90年代初め、遠(yuǎn)山さんは、恩格貝砂漠開(kāi)発モデルエリアの総指導(dǎo)者に任命され、日本砂漠緑化実踐協(xié)會(huì)を立ち上げた。中國(guó)において十?dāng)?shù)年の砂漠緑化活動(dòng)を行った遠(yuǎn)山さんの足跡は、新疆維吾爾(ウイグル)自治區(qū)、甘粛省、寧夏回族自治區(qū)、內(nèi)蒙古自治區(qū)にも殘されており、ボランティア7000人以上と共に、約300萬(wàn)本を植樹(shù)した。
遠(yuǎn)山さんは日本において、砂漠緑化の意義を大々的にPRし、一人でも多くの日本の人が中國(guó)に行って植樹(shù)に參加するよう呼びかけていた。遠(yuǎn)山さんは98年に中國(guó)政府から「友誼奨」を授與され、01年には國(guó)連「人類に対する思いやり市民賞」を受賞した。
遠(yuǎn)山さんが亡くなった後も、多くの日本人ボランティアが遠(yuǎn)山さんの遺志を継いで、中國(guó)での植樹(shù)に參加しており、毎年ボランティアに約300人の申し込みがある。
このほど遠(yuǎn)山さんが暮らし、働いていた鳥(niǎo)取県に取材に訪れた。
取材に応じた鳥(niǎo)取市企畫推進(jìn)部文化交流課の山田雅一課長(zhǎng)によると、「日本砂漠緑化実踐協(xié)會(huì)は毎年、全國(guó)各地のボランティアがクブチ砂漠に行って植樹(shù)することを企畫している。今年の緑化活動(dòng)は7、8、9月に展開(kāi)される。1回6日間で、一人當(dāng)たりの費(fèi)用は17萬(wàn)8000円、全額自己負(fù)擔(dān)」とその活動(dòng)を紹介。
山田課長(zhǎng)は07年に鳥(niǎo)取大學(xué)、鳥(niǎo)取環(huán)境大學(xué)、鳥(niǎo)取県などと共同で、「クブチ砂漠植樹(shù)活動(dòng)支援會(huì)」を立ち上げ、毎年學(xué)生らがクブチ砂漠に行って植樹(shù)するよう企畫し、遠(yuǎn)山さんの精神を引き継いで、中日友好を促進(jìn)している。
中國(guó)での植樹(shù)を通じて行う侵略の歴史の償い
日本砂漠緑化実踐協(xié)會(huì)の石田敏光理事は、「日本は過(guò)去に中國(guó)に対して侵略戦爭(zhēng)を起こしており、許されない戦爭(zhēng)犯罪を犯した。遠(yuǎn)山さんはずっとそれに心を痛め、晩年は中國(guó)での植樹(shù)を通して、侵略の歴史の償いをしたいと考えていた」と述べる。
石田理事は以前、遠(yuǎn)山さんと共に中國(guó)に行って植樹(shù)をした経験があり、遠(yuǎn)山さんは、忍耐強(qiáng)く、確実に行動(dòng)する人だったというのがその印象だったといい、「遠(yuǎn)山さんは、『砂漠緑化の理論を研究をしている人はたくさんいるが、実際に行動(dòng)をしている人は非常に少ない。體力が続く限り、1本でも多くの木を植えたい』とよく話していた」という。
事実、遠(yuǎn)山さんと中國(guó)の「縁」は1935年にまで遡ることができる。同年、中國(guó)に留學(xué)した遠(yuǎn)山さんは、農(nóng)耕文化や植物生態(tài)を研究し、36年に研究用にとクブチ砂漠の土地を購(gòu)入した。しかし、日本がその後すぐに中國(guó)侵略戦爭(zhēng)を起こしたため、遠(yuǎn)山さんの計(jì)畫はもろくも崩れてしまった。
石田理事によると、遠(yuǎn)山さんは戦爭(zhēng)を二度と起こしてはならず、日中友好を代々引き継いでいかなければならないと考えていた。鳥(niǎo)取大學(xué)で定年を迎えた遠(yuǎn)山さんは、老後の生活全てを中國(guó)における砂漠緑化事業(yè)に捧げたという。
植樹(shù)をめぐっては、遠(yuǎn)山さんには、樹(shù)を植える時(shí)の穴の深さや大きさ、苗と苗の距離、土のかたさなどの自分なりの科學(xué)的理論があり、ボランティアにそれを詳しく伝えて、その通りに行うよう指示していたという。他の人に細(xì)かな指示を出すだけでなく、遠(yuǎn)山さんは自分にも厳しく、1日に10時(shí)間植樹(shù)に従事していたという。
さらに、植樹(shù)を支援するために、鳥(niǎo)取県の不動(dòng)産を売卻したり、日本のテレビ局や大學(xué)、社會(huì)団體などに中國(guó)での植樹(shù)の意義を説明して、資金集めに奔走したりしていたという。
そのような遠(yuǎn)山さんの姿勢(shì)に感銘を受け、石田理事を含むたくさんのボランティアがその遺志を継ぎ、毎年中國(guó)に足を運(yùn)んで植樹(shù)を行っている。そして、緑の木々が中日友好の証となっている。
「砂丘の父」が殘した砂丘1平方キロ
遠(yuǎn)山さんの長(zhǎng)期に渡る取り組みが成果を上げ、日本の海岸線上の砂丘24萬(wàn)ヘクタールが効果的に緑化されたため、日本で遠(yuǎn)山さんは、「砂丘の父」と呼ばれている。緑化はそんなに簡(jiǎn)単なことではないということを多くの人に銘記してもらおうと、遠(yuǎn)山さんはわざわざ砂丘1平方キロを教育拠點(diǎn)として殘し、見(jiàn)學(xué)できるようにしている。
鳥(niǎo)取県東伯郡北栄町の農(nóng)地に立った石田理事は、「50年前、ここも砂丘だった。しかし、遠(yuǎn)山さんのおかげで、今はここでヤマイモやスイカ、ブドウなどを生産できるようになった。鳥(niǎo)取県民はずっと遠(yuǎn)山さんに感謝している」と話した。
鳥(niǎo)取市の栄譽(yù)市民である遠(yuǎn)山さんの寫真は今でも鳥(niǎo)取市役所のホールに掲げられている。また、遠(yuǎn)山さんがかつて教壇に立っていた鳥(niǎo)取大學(xué)にもその功績(jī)を記念する石碑が建てられている。
鳥(niǎo)取大學(xué)の巖崎正美元理事は、遠(yuǎn)山さんと共に何度も中國(guó)に視察に訪れた。遠(yuǎn)山さんと一緒に仕事をした日々を振り返り、巖崎さんは、「仕事をする時(shí)、遠(yuǎn)山さんは常に古びた日よけ帽子をかぶり、黃色の作業(yè)著を著て、長(zhǎng)靴を履いていた。そして、高齢になってからも行動(dòng)で模範(fàn)を示し、周りの人の心をあたたかくし、感動(dòng)させてくれた。また、ボランティアの若者たちをいつも勵(lì)ましていた」と語(yǔ)る。
今年は中日平和友好條約締結(jié)40周年を迎えた。巖崎元理事は、「日中両國(guó)がさらに多くの砂漠緑化人材を育て、環(huán)境保護(hù)の分野の協(xié)力を強(qiáng)化し、日中友好が代々引き継がれることを願(yuàn)っている」と話した。(編集KN)
「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2018年8月14日
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