木口 政樹 2020年1月20日(月) 18時0分
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辛格浩と聞いてもピンとくる人はいないはずだ。ロッテといったらどうだろうか。ロッテを知らない日本の人はいないはず。そう、あの有名な「お口の戀人」ロッテを作った人がこの辛格浩氏だ。寫真はロッテワールド。
辛格浩(シン?ギョクホ)と聞いてもピンとくる人はいないはずだ。ロッテといったらどうだろうか。ロッテを知らない日本の人はいないはず。そう、あの有名な「お口の戀人」ロッテを作った人がこの辛格浩氏だ。辛格浩氏の特集がいろいろの新聞でやられている。朝鮮日報を土臺としてご紹介したい。
辛格浩氏は、日本の植民地支配期だった1922年慶尚南道蔚山三南面ドゥンキリというところで、貧農の家の5男5女のうち長男として生まれた。彼は蔚山(ウルサン)農業(yè)高校を卒業(yè)して豚の飼育をはじめたけれど、もっと勉強することを願った。1941年親戚のお兄さんが用意してくれた路銭83円を持って日本に留學し早稲田大學で化學を勉強することになる。會社員の平均月給は當時だいたい80円から100円程度だったという。30萬円くらい持って行ったということか。
彼の日本での名前は重光武雄だ。青年重光武雄は、日本で晝は牛乳と新聞を配達し、夜は大學に通いながら學業(yè)に勵んだ。偶然に出會った日本人の事業(yè)家花光さんという人が彼を高く評価し、事業(yè)資金として5萬円を貸してくれる。この金で1944年東京周辺に潤滑油工場を建てる。 しかし工場は米軍の爆撃を受けて稼動もできないまま焼けてしまう。5萬円はそっくり借金として殘る。
1945年8月、日本は無條件降伏、韓國は植民地からの解放。このとき、日本にいた韓國人が大挙して母國に帰國したが、辛格浩は「私を信じてお金を貸してくれた人を置いて行くことはできない」と、牛乳配達をしながら工事現(xiàn)場で肉體労働をやり、事業(yè)の元手を調達した。彼は當時、雨が降っても雪が降っても、配達時間を破ったことがないという。配達時間が正確だといううわさが広まり、辛青年のところに牛乳配達の注文がどっと舞い込んでくることになる。
こうして貯めたお金を全部まとめて1946年、東京に「ひかり特殊化學研究所」という工場を建てて石鹸クリームなどを作って売った。石鹸は飛ぶように売れ、1年半後には借金を全部返すことができた。辛青年は自分を信じ続けてくれた花光氏に借りた資金をすべて返したうえ、感謝の気持ちの表れとして家まで1軒買ってあげた。
以降、飛ぶ鳥も落とす勢いの辛格浩社長は、1948年には資本金100萬円、従業(yè)員10人の會社を設立して「ロッテ」の看板を初めて掲げた。ガム會社の(株)ロッテを創(chuàng)業(yè)、「ロッテ神話」の幕開けとなったわけである。
會社名の「ロッテ」は、ゲーテの「若きヴェルテルの悲しみ」に出てくる女主人公「シャルロッテ」から取ったものだ。一時、作家の夢をもっていた辛格浩氏が、ロッテがシャルロッテのように愛される企業(yè)になることを願ったことから名づけられたという。後年、辛格浩氏は「ロッテ」というブランド名を考えたことがわたしの最大の収穫ということばも殘している。
ロッテは、ガムに続いてチョコレート、キャンデー、ビスケットなど事業(yè)領域を広げ、日本屈指の総合製菓企業(yè)としての地位を固めてゆくことになる。1959年にはロッテ商事、1961年ロッテ不動産、1967年ロッテアド、1968年ロッテ物産、株式會社ファミリーなど事業(yè)を多角化し、日本の10大企業(yè)にまで成長した。
日本での事業(yè)が定著すると、辛格浩氏は故國韓國に目を向けることになる。辛格浩名譽會長(晩年の地位)は、日韓國交正常化によって投資の道が開かれると、事業(yè)を韓國へと拡張して、1966年にはロッテアルミニウムを、1967年にはロッテ製菓を設立した。
ロッテはジューシーフレッシュ、スピアミント、バタークッキーなどヒット商品を次々と打ち出して急速に成長してゆく。飲料?氷菓會社を買収する一方、観光?流通?建設?石油化學事業(yè)にも進出した。1973年にはソウル小公洞(ソゴンドン)に地下3階、地上38階規(guī)模のロッテホテルを竣工した。1974年と1977年には七星(チルソン)ハンミ飲料と三綱産業(yè)をそれぞれ買収して、ロッテチルソン飲料やロッテサムガン(現(xiàn)ロッテフード)に社名を変更した。1979年にはロッテホテルの隣にロッテデパートをオープンし流通業(yè)にも進出した。平和(ピョンフ?。┙I(yè)社(現(xiàn)ロッテ建設)と湖南(ホナム)石油化學(現(xiàn)ロッテケミカル)を買収したのもこの頃だ。
以降1980年には韓國富士フィルム、1982年にはロッテキヤノン?テホン企畫などを設立し事業(yè)領域をさらに広げてゆく。ロッテグループは1980年代の高度成長期にタイミングよく乗り、相次ぐ合併?買収を通じて、今日、韓國內の財界第5位の企業(yè)になっている。辛格浩名譽會長は、このような高速成長を背景に、1990年、米國経済専門誌のフォーブスが選定した世界の億萬長者番付の第9位に上がったこともある。
しかし辛格浩の時代は2015年7月、長男の辛東主(シン?ドンジュ)元ロッテホールディングス副會長と次男の辛東彬(シン?ドンビン)ロッテグループ會長が経営権紛爭を繰り広げることから傾き始める。この過程で辛名譽會長は経営の一線から退くことになる。2017年には、ロッテ建設やロッテジャイアンツ、日本ロッテホールディングス、ロッテアルミなどの取締役から退き、日韓ロッテの経営から完全に退くことになる。日本で70年、韓國で50年間続いた「辛格浩時代」にピリオドが打たれたわけである。
辛名譽會長は昨年6月、裁判所の決定によって居所をソウル蠶室(チャムシル)にあるロッテワールドタワーから小公洞(ソゴンドン)に移した。 以後健康が悪化し入退院を繰り返しながら、1月19日午後、98年の長きにわたる人生行路にピリオドを打った。合掌。
韓國を代表する偉大な経営者である。一代でこれだけの事業(yè)を展開するっていうのは、誰にもできるワザではない。運と才能が錬金術のように昇華するとき、こういう奇跡が生まれるのであろう。去年のボイコット?ジャパン(日本製品不買運動)のときには、日本系の會社だということで散々の目に遭っている。今もその影響がゼロとはいえないようであるけれども、生粋の韓國人の作った會社なのだから、ボイコットだのなんだのと言うのはほどほどにしてほしいところだ。いいものはいいと、素直に認めてあげたらいいのに。そう思う。
■筆者プロフィール:木口 政樹
イザベラ?バードが理想郷と呼んだ山形県?米沢市出身。1988年渡韓し慶州の女性と結婚。元三星(サムスン)人力開発院日本語科教授、元白石大學校教授。趣味はサッカーボールのリフティング、クラシックギター、山歩きなど。著書に『おしょうしな韓國』、『アンニョンお隣さん』など。まぐまぐ大賞2016でコラム部門4位に選ばれた。 著書はこちら(amazon)Twitterはこちら※フォローの際はメッセージ付きでお願いいたします。
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