<羅針盤(pán)>日中平和友好條約40周年で考えたこと―立石信雄オムロン元會(huì)長(zhǎng)

立石信雄    2018年8月19日(日) 5時(shí)10分

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日中平和友好條約締結(jié)(1978年8月)から40周年を迎えた。安倍晉三首相と中國(guó)の李克強(qiáng)首相は節(jié)目の今年8月12日、祝電を交換。寫(xiě)真は京都?嵐山にある周恩來(lái)さんの石碑。トップ同士のこのような交流は貴重だと思う。寫(xiě)真は京都?嵐山にある周恩來(lái)さんの石碑。

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<羅針盤(pán)>日中平和友好條約40周年で考えたこと―立石信雄オムロン元會(huì)長(zhǎng)

その他の寫(xiě)真

日中平和友好條約締結(jié)(1978年8月)から40周年を迎えた。安倍晉三首相と中國(guó)の李克強(qiáng)首相は節(jié)目の今年8月12日、祝電を交換。安倍首相が「両國(guó)は地域や世界の平和と繁栄に大きな責(zé)任を共有している。手を攜えて協(xié)力を深め、國(guó)際社會(huì)が直面する諸課題の解決に貢獻(xiàn)し、その期待に応えていきたい」と呼び掛け、李首相も「互恵協(xié)力を深め、意見(jiàn)の相違を適切にコントロールし、中日関係の長(zhǎng)期的で健全かつ安定した発展を推進(jìn)していく」と呼応した。両國(guó)はこの10年あまり、ぎくしゃくした関係が続いていただけに、トップ同士のこのような交流は貴重だと思う。

日中両國(guó)は國(guó)交正?;虼_認(rèn)した日中共同聲明、日中平和友好條約など4つの文書(shū)を交わしているが、5つ目の文書(shū)交わすことを検討していると報(bào)道されている。安倍首相が今秋に訪日し、2019年に計(jì)畫(huà)されている習(xí)主席の訪日時(shí)に合意締結(jié)することが見(jiàn)込まれている。

 

日中関係は大きく変貌し、従來(lái)のように「友好」や「互恵」といった概念だけでは収まらなくなりつつあるが、こうした狀況だからこそ、トップが行き來(lái)し、文書(shū)を交わすことが重要だ。

日中の國(guó)交が回復(fù)したのは1972年。當(dāng)時(shí)の田中角栄首相と周恩來(lái)首相が多くの困難を乗り越えて文書(shū)を締結(jié)した。私が初めて中國(guó)を訪問(wèn)したのもこの直後である。京都の経営者グループによる北京での「自動(dòng)化展」の視察団に參加したときだった。そのときに周首相にお會(huì)いできたのは、非常に印象深い思い出である。

周恩來(lái)さんは今でも多くの中國(guó)國(guó)民に尊敬され、慕われているが、オムロンの創(chuàng)業(yè)者である父?立石一真は、1974年に日本國(guó)際貿(mào)易促進(jìn)協(xié)會(huì)京都総局が京都の嵐山に周恩來(lái)さんの石碑を建立した際に、副會(huì)長(zhǎng)として協(xié)力したことがある。私自身も1994年から周恩來(lái)さんの出身校である天津の南開(kāi)大學(xué)の顧問(wèn)教授を務(wù)め、これまで5回ほど、特別講義をさせてもらっており、親子二代にわたる周恩來(lái)さんとの深いつながりを感じている。

中國(guó)政府の要人にお會(huì)いすると、スケールの大きい長(zhǎng)期的なスパンで物事を見(jiàn)る方々が多いことがわかり、さすがに4000年という悠久なる歴史を持つ國(guó)の指導(dǎo)者だと感心してしまう。また、ビジネスはもとより、國(guó)際政治においても人間関係を大事にする、信義に厚い人々だということがわかる。

1996年3月に訪中した折にお會(huì)いした呉邦國(guó)副首相も、創(chuàng)業(yè)者?一真の時(shí)代から引き継がれた20年以上にわたる中國(guó)とオムロンの関係を自ら指摘され、「今後も中國(guó)の発展のために力を貸してほしい」と述べておられた。この細(xì)やかな心遣いには感動(dòng)したものである。

日中國(guó)交回復(fù)後、いち早く中國(guó)での事業(yè)に乗り出したオムロンは、1981年に上海華一電器廠という國(guó)営企業(yè)にマグネットーリレーの生産を委託して、中國(guó)での生産をスタートさせた。その後、1989年から大連で健康機(jī)器の委託生産を開(kāi)始。1996年には新しく開(kāi)発が始まった上海浦東開(kāi)発區(qū)に3つの工場(chǎng)を相次いで抜粋設(shè)立し、2002年には広東省の深センに、さらに2005年には広州にも工場(chǎng)を設(shè)立した。

このように急速な成長(zhǎng)を遂げることができたのは、中國(guó)の経済そのものの発展に負(fù)うところが大きいが、當(dāng)社だけでなく、多くの日本企業(yè)にとって中國(guó)の存在が非常に大きなものとなってきていることは言うまでもない。外務(wù)省の統(tǒng)計(jì)によると、中國(guó)にある日本企業(yè)の拠點(diǎn)數(shù)は2015年後半に3萬(wàn)3390となり、その後も拠點(diǎn)數(shù)は増えている。貿(mào)易相手國(guó)としても中國(guó)は最大である。

日中平和友好條約締結(jié)40年の節(jié)目の今年、さまざまなハードルを乗り越え日中関係がさらに発展するよう願(yuàn)ってやまない。

<羅針盤(pán)篇30>

1959年立石電機(jī)販売に入社。1965年立石電機(jī)(現(xiàn)オムロン株式會(huì)社)取締役。1995年代表取締役會(huì)長(zhǎng)。2003年相談役。 日本経団連?國(guó)際労働委員長(zhǎng)、海外事業(yè)活動(dòng)関連協(xié)議會(huì)(CBCC)會(huì)長(zhǎng)など歴任?!弗蕙庭弗幞螗趣?a target='_blank' href='http://www.wenhuatang.com/search.php?filter=ノーベル賞'>ノーベル賞」といわれるSAM(Society for Advancement of Management)『The Taylor Key Award』受賞。同志社大名譽(yù)文化博士。中國(guó)?北京大、南開(kāi)大、上海交通大、復(fù)旦大などの顧問(wèn)教授や顧問(wèn)を務(wù)めている。SAM(日本経営近代化協(xié)會(huì))名譽(yù)會(huì)長(zhǎng)。エッセイスト。

■筆者プロフィール:立石信雄

1959年立石電機(jī)販売に入社。1965年立石電機(jī)(現(xiàn)オムロン株式會(huì)社)取締役。1995年代表取締役會(huì)長(zhǎng)。2003年相談役。 日本経団連?國(guó)際労働委員長(zhǎng)、海外事業(yè)活動(dòng)関連協(xié)議會(huì)(CBCC)會(huì)長(zhǎng)など歴任?!弗蕙庭弗幞螗趣违惟`ベル賞」といわれるSAM(Society for Advancement of Management)『The Taylor Key Award』受賞。同志社大名譽(yù)文化博士。中國(guó)?北京大、南開(kāi)大、上海交通大、復(fù)旦大などの顧問(wèn)教授や顧問(wèn)を務(wù)めている。SAM(日本経営近代化協(xié)會(huì))名譽(yù)會(huì)長(zhǎng)。エッセイスト。

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