<コラム>突然消えた長(zhǎng)江文明、日本人はどこから來た民族なのか?

工藤 和直    2018年8月20日(月) 22時(shí)20分

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我々は世界4大文明として、メソポタミア?インダス?エジプト?黃河文明と教科書で習(xí)ったが、それに先立つ「長(zhǎng)江文明」が中國(guó)中央部にあったと再考せざるを得なくなった。寫真は筆者提供。

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我々は世界4大文明として、メソポタミア?インダス?エジプト?黃河文明と教科書で習(xí)ったが、それに先立つ「長(zhǎng)江文明」が中國(guó)中央部にあったと再考せざるを得なくなった。1973年?1978年の発掘調(diào)査で、浙江省余姚市の河姆渡遺跡(かぼといせき)は紀(jì)元前6000年~紀(jì)元前5000年頃のものと推定され、大量の稲モミなど稲作の痕跡が発見された。河姆渡遺跡は明らかに黃河文明とは系統(tǒng)の異なるものであり、それまでの「中國(guó)文明は黃河文明から始まった」という當(dāng)時(shí)の定説を大きく覆す事になった(図1)。

その他の寫真

長(zhǎng)江文明は稲作が中心であり、畑作中心の黃河文明とは違うが、どちらの農(nóng)耕も獨(dú)自の経緯で発展したものと見られる。長(zhǎng)江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長(zhǎng)江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。すなわち稲のDNAから見て、日本に來たのは長(zhǎng)江の稲である。ところが、湖北省荊州長(zhǎng)江中流域の屈家?guī)X文化(くつかれいぶんか、紀(jì)元前3000~2500年頃)?下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀(jì)元前3500~2200年頃、周囲7キロメートルに渡り城壁があり夏王朝以前にあった都市國(guó)家ともいわれる)の時(shí)代を最盛期として突然消滅した理由は、夏王朝により征服されたと考えられる(洪水説もある)。

江蘇省蘇州市東北に広がる陽(yáng)澄湖の南岸の唯亭鎮(zhèn)東北2キロメートルに、草鞋(そうあい)山遺跡がある(寫真1)。日中両國(guó)の考古學(xué)者が、5年の歳月をかけて発掘?調(diào)査した結(jié)果、蘇州の草鞋山遺跡一帯で暮らしていた先住民は6千年前に水稲栽培を始めていたと認(rèn)定した。これは福岡県の板付古代水田遺跡より3500年も早い時(shí)期で、これまでに発見された世界で最も古い古代稲田である。これは1994年宮崎大學(xué)で行われたシンポジウムで、日中両國(guó)の専門家の一致した結(jié)論である。この結(jié)論は、アジアにおける稲作起源の中心地は紀(jì)元前4000年頃に、長(zhǎng)江沿いにあったとされた。

苗族は長(zhǎng)江中流湖北省の武漢から荊州にかけて長(zhǎng)江文明(屈家?guī)X文化)を発展させた少數(shù)民族であるが、夏王朝の南進(jìn)によって故郷を追われ現(xiàn)在の雲(yún)南に逃げた一族と、淅江省から海伝いに日本に逃げた一族に分かれたと言われる。苗族の正月風(fēng)習(xí)の多くは、日本人の風(fēng)習(xí)と重なる點(diǎn)が多いし、日本人DNAにも苗族のDNAと共通する點(diǎn)もある(図2)。

人類(ホモサピエンス)は14萬年前の東アフリカタンザニアを起源とする。黒人の中から突然変異によって生まれた白色に近い人類は迫害を受ける中、サハラ砂漠を抜け、ナイル河を下り、7萬年ほど前のイラン高原でヨーロッパ系とアジア系に分かれる。華人も日本人も7萬年前を起源とする人類である。そして約5萬年前にイラン高原からタリム盆地を抜け、中原に來た華人は黃河流域と長(zhǎng)江流域に分かれ、それぞれ獨(dú)特の文明を築く。日本民族は約4萬年前にモンゴル高原から朝鮮半島もしくは樺太を越えて移住した民族によって、舊石器?縄文文化が栄えるが、紀(jì)元前8世紀(jì)には、長(zhǎng)江を追われた稲作や鉄器などの近代文明を擁する彌生民族が南方から九州に移住、現(xiàn)存の縄文人との混血により現(xiàn)代日本民族が出來上がったと考えられる。

この彌生民族こそが夏王朝によって追い出された長(zhǎng)江民族(苗族など長(zhǎng)江流域の部族)であったと予想される。最近の研究で日本の彌生時(shí)代は500年ほど早い紀(jì)元前8世紀(jì)と言う新説がある。また、中央アジアのキルギス族の間では、遠(yuǎn)い昔キルギスの兄弟の一方が遠(yuǎn)く日本に渡り日本人になったという話が伝わっている。確かに、キルギス族は何となく日本人に風(fēng)貌が似ている。

古事記は、その名が示すように古事(民族の起源)を記録した書である。天皇の系譜を表した帝記と神話や伝承を記した舊辭から構(gòu)成される。この舊辭の中に天孫降臨の巻があるが、伝説とは言え高千穂の峰(鹿児島県および宮崎県)に降臨されたニニギノミコト他の神々はしばらく鹿児島の薩摩半島南端(現(xiàn)在の野間岬)に居られたという伝説から見て、この神々こそが新文明をもたらした彌生人(長(zhǎng)江文明人)であった可能性が極めて高い。

日本語(yǔ)は、文法面から見るとモンゴル語(yǔ)?朝鮮語(yǔ)?トルコ語(yǔ)と同じアルタイ語(yǔ)族になるが、発音から見るとタミル語(yǔ)や江南地方の呉語(yǔ)(蘇州語(yǔ)も含む)に近いとも言われる。蘇州語(yǔ)の単語(yǔ)の中に“イネ”と発音する言葉があるが、日本語(yǔ)の“稲”と同音同意語(yǔ)である。その他、蘇州語(yǔ)に日本語(yǔ)と同じ同音同意語(yǔ)が多く見られるが、単なる偶然と思われない。

■筆者プロフィール:工藤和直

1953年、宮崎市生まれ。韓國(guó)で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國(guó)電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國(guó)江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國(guó)で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國(guó)電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國(guó)江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國(guó)関係會(huì)社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國(guó)関係會(huì)社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國(guó)や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會(huì)を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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