中國(guó)メディア「臺(tái)灣の航空工業(yè)の形成は日本が手がけた」

Record China    2018年9月10日(月) 0時(shí)10分

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新浪網(wǎng)は、臺(tái)灣のF-16V戦闘機(jī)が注目を集めていることに皮肉を込めて臺(tái)灣の航空産業(yè)史を紹介する記事を掲載した。結(jié)果として臺(tái)灣における航空工業(yè)の形成を?qū)g現(xiàn)させたのは日本だったと認(rèn)める內(nèi)容になった。寫(xiě)真は同記事が掲載した日本の雷電戦闘機(jī)の紹介。

中國(guó)メディアの新浪網(wǎng)はこのほど「井の中の蛙、海を知らず 臺(tái)灣省航空工業(yè)の歴史から、その戦闘機(jī)製造能力を見(jiàn)る」と題する記事を掲載した。臺(tái)灣が米國(guó)のF-16戦闘機(jī)を改修したF-16Vが注目を集めていることを皮肉った?jī)?nèi)容だが、結(jié)果として臺(tái)灣における航空工業(yè)の形成を?qū)g現(xiàn)させたのは日本だったと認(rèn)める內(nèi)容になった。

中國(guó)ではこれまで、J-20(殲20)ステルス戦闘機(jī)の実戦配備を始めたことなどにより、臺(tái)灣に対する「空の軍事的優(yōu)勢(shì)は完全に確立された」との見(jiàn)方が一般的だった。しかし臺(tái)灣がF(xiàn)-16Vの投入を始めたことについては相當(dāng)に神経質(zhì)になっている?!窮-16VはJ-20を補(bǔ)足することが可能」との見(jiàn)方に対しては、中國(guó)軍の専門(mén)家がテレビ出演して否定しているが、中國(guó)側(cè)に懸念があるからこそと理解してよい。

新浪網(wǎng)が掲載した記事は、1914年に日本人が米國(guó)製飛行機(jī)を操縦して臺(tái)北上空でデモンストレーション飛行を?qū)g施したこと、1919年に臺(tái)灣で「警察航空班」が設(shè)立され、臺(tái)灣初の飛行場(chǎng)の屏東飛行基地が設(shè)けられ、日本の飛行機(jī)の整備と部品製造のために多くの臺(tái)灣人が従事したことが、臺(tái)灣の航空製造業(yè)の発端と紹介した。

さらに、臺(tái)灣におけるアルミニウム生産の始まりは、日本企業(yè)の三菱と三井が1935年に設(shè)立した合弁會(huì)社によるもので、航空燃料については1942年に海軍が燃料生産施設(shè)を建造したと、航空関連の周辺産業(yè)も日本によりもたらされたと論じた。

さらに、第二次世界大戦がはじまると、臺(tái)灣では複葉の九三式中間練習(xí)機(jī)(俗稱は赤とんぼ)、九六式艦上戦闘機(jī)、「月光」夜間戦闘機(jī)、「銀河」爆撃機(jī)、「彩雲(yún)」偵察機(jī)、九七式艦上攻撃機(jī)、零式艦上戦闘機(jī)(零戦、ゼロ戦)など各種の航空機(jī)の組み立てと修理が行われ、生産量は最多時(shí)で月間200機(jī)に達(dá)するなど、「臺(tái)灣は日本軍にとって最も重要な軍需工場(chǎng)になった」と論じた。

また、臺(tái)灣では青少年を?qū)澫螭趣工朊耖gの航空団體が次々に設(shè)立されたとして「臺(tái)灣航空少年団」「臺(tái)南州國(guó)防義會(huì)航空団」「臺(tái)北高等學(xué)校航空研究會(huì)」を挙げ、1943年から45年までは臺(tái)灣の「技術(shù)生徒」8419人が神奈川県で海軍の「雷電」戦闘機(jī)の組み立てに攜わったと指摘した。

記事は続けて「臺(tái)灣の航空製造業(yè)の技術(shù)のもうひとつの由來(lái)は大陸だった」と紹介。中國(guó)大陸では1910年に初めて、北京でデモンストレーション飛行が実施されたとして、その後の航空工業(yè)の発展を紹介した。

ただし、1945年の日本敗戦までの中國(guó)大陸と臺(tái)灣の航空産業(yè)の関係については記述していない。また、中國(guó)大陸において製造された航空機(jī)として挙げられているのも、すべて歐米で開(kāi)発された機(jī)種だ。

記事は、戦後になって臺(tái)灣で航空機(jī)産業(yè)が再出発するにあたっては、日本が殘した航空機(jī)製造施設(shè)と、日本統(tǒng)治時(shí)代に技能を身に著けていた工場(chǎng)労働者が「基礎(chǔ)」になったと紹介した。

記事はさらに、1950年代以降の臺(tái)灣の航空産業(yè)と人員育成について、多くは米國(guó)にたよったものと主張。1969年以降は臺(tái)灣も航空機(jī)の自主開(kāi)発に取り組んだと説明した上で、順調(diào)でなかったと強(qiáng)調(diào)した。

記事は、「臺(tái)灣の航空機(jī)製造業(yè)が日本、中國(guó)大陸、米國(guó)の長(zhǎng)所を取り入れ、各時(shí)代に成果を上げてきたことは、まず認(rèn)める」と論じた上で、「航空機(jī)製造は工業(yè)の実力を基礎(chǔ)とする。臺(tái)灣海峽両岸の実力がますます開(kāi)く今日にあって、臺(tái)灣の一部の者が『自國(guó)の飛行機(jī)は自國(guó)で作る』ことに頼って臺(tái)灣獨(dú)立を妄想することは最終的に何も生み出さない」と論じた。

なお、同記事は臺(tái)灣の航空工業(yè)の基礎(chǔ)を作ったのは日本、中國(guó)大陸、米國(guó)と主張したが、中國(guó)大陸の航空産業(yè)が臺(tái)灣に何をもたらしたかは、具體的に觸れていない。一方で、戦前の日本により臺(tái)灣にもたらされた航空産業(yè)は詳細(xì)に説明している。

中國(guó)では戦前における日本の臺(tái)灣統(tǒng)治について、否定的側(cè)面を強(qiáng)調(diào)して語(yǔ)られることが一般的だ。人材育成を含めて臺(tái)灣における航空機(jī)産業(yè)の形成は日本側(cè)が手掛けたと詳細(xì)に説明した同記事は、中國(guó)の報(bào)道としては異色と考えてよい。(翻訳?編集/如月隼人

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