Record China 2018年9月13日(木) 5時50分
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12日、環(huán)球網(wǎng)は、日本臺灣交流協(xié)會臺北事務(wù)所が入る臺北市中心部のビルで10日、入り口のガラスや床にペンキがまかれる騒ぎがあったことに関連し、「日臺交流協(xié)會はペンキをまかれただけにとどまらず、さまざまなことを経験してきた」とする記事を掲載した。
2018年9月12日、中國メディアの環(huán)球網(wǎng)は、日本の対臺灣窓口機関、日本臺灣交流協(xié)會臺北事務(wù)所が入る臺北市中心部のビルで10日午後、入り口のガラスや床にペンキがまかれる騒ぎがあったことに関連し、「日臺交流協(xié)會はペンキをまかれただけにとどまらず、さまざまなことを経験してきた」とする記事を掲載した。
報道によると、日本の民間団體の代表者が臺灣臺南市に設(shè)置された慰安婦像に蹴りを入れたとされる問題をめぐり、慰安婦像の設(shè)置を主導(dǎo)した最大野黨?國民黨臺南支部の幹部らが10日午前から晝にかけて同事務(wù)所前で抗議活動を行った。また午後には中國と臺灣の統(tǒng)一を主張する反日団體「中華統(tǒng)一促進黨」のメンバーの男女4人がペンキをまいたとして警察に身柄を拘束された。
環(huán)球網(wǎng)は、「日臺交流協(xié)會はペンキをまかれただけにとどまらず、さまざまなことを経験してきた」と題する記事で、臺灣メディアの報道を引用し、「臺灣の人々が最初に日臺交流協(xié)會に出向いて爭ったのは1982年の歴史教科書問題の時だ」とし、「日本が教科書で中國を侵略した史実を改ざんし、『侵略』を『進出』に変え、九一八事変(満州事変)や南京大虐殺などの殘虐行為を粉飾したことに対し、臺灣で1萬人を超える署名運動に発展し、名簿が日臺交流協(xié)會に渡された」とした。
また「88年には、強制的に參戦させらた臺灣原住民の遺族が日本の賠償に不満を示し、日臺交流協(xié)會に請願書を提出したほか、同年10月には10余りの民間団體が、昭和天皇による中國人民への謝罪を求めて日臺交流協(xié)會前で抗議活動を行った。96年6月には、30余人の臺灣元兵士が日臺交流協(xié)會前で抗議活動を行い、賠償額増加の要求が実らなかったことに怒り、協(xié)會施設(shè)のガラスなどを破壊するということがあった」とした。
尖閣諸島をめぐる問題では「89年9月に宜蘭の船員が日本の海上保安庁の職員に毆打されるということがあり、中國統(tǒng)一連盟が『新保釣運動』デモを起こした。翌年、當時の呉敦義高雄市長が聖火を船団によって尖閣諸島に屆けることを計畫したが、日本側(cè)に阻止され船団は引き返さざるを得ず抗議を誘発した。96年9月に香港の保釣運動活動家が海に飛び込んで中國の主権をアピールしようとしたところ、足に縄が絡(luò)まるなどして死亡した。臺灣の保釣団體は即座に日臺交流協(xié)會前で犠牲者のために座って嘆いた」とした。
さらに「臺灣の元慰安婦が初めて日臺交流協(xié)會へ行き抗議したのは2002年のことで、5人の元慰安婦が日本政府に謝罪と賠償を求めた。05年には6人の元慰安婦が日臺交流協(xié)會に抗議文を提出し、日本に正式な謝罪を求めた。以後、元慰安婦たちは1~2年おきに出向いて抗議している」とした。
また「特筆すべきこと」として、「1990年10月の尖閣諸島をめぐる問題での抗議活動には民進黨も積極參加していた」とし、「當時の外交部主任の李宗藩氏らは日臺交流協(xié)會に抗議文を渡し、尖閣諸島は歴史的な観點や中國歴代王朝の版図の変遷から、中國の版図であることは明確であり、日本帝國主義は盜難?占領(lǐng)を強行すべきでないと強調(diào)した。當時の民進黨立委の林正傑氏は怒りのあまり日臺交流協(xié)會臺北事務(wù)所長の梁井新一氏の事務(wù)機のガラスを壊した。それに比べて現(xiàn)在の民進黨は、日本のことになると一段と劣ったようになり本當に恥ずかしい」などとした。(翻訳?編集/柳川)
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