Record China 2012年9月6日(木) 6時(shí)31分
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8月27日、中國(guó)?河南省許昌市襄城県で「花岡事件」のリーダーだった耿諄さんが他界した。訃報(bào)にネットからは耿さんを“永遠(yuǎn)の英雄”や“記憶に殘すべき偉人”と稱(chēng)え、老人の死を惜しむ聲が絶えなかった。寫(xiě)真は2006年カナダの教師たちに抗日戦爭(zhēng)を語(yǔ)る耿さん。
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2012年8月27日、中國(guó)?河南省許昌市襄城県で、「花岡事件」のリーダーだった耿諄(グン?ジュン)さんは老衰のため他界した。波亂に満ちた97年の人生に幕を下ろした。訃報(bào)にネットからは耿さんを“永遠(yuǎn)の英雄”や“記憶に殘すべき偉人”と稱(chēng)え、老人の死を惜しむ聲が絶えなかった。5日付で北京晨報(bào)が伝えた。
【その他の寫(xiě)真】
耿さんは1932年に従軍し、抗日戦爭(zhēng)に身を投じた。戦爭(zhēng)中に捕虜となり秋田県の花岡町(現(xiàn)大館市)の花岡鉱山に1000人近い中國(guó)人と共に強(qiáng)制連行され、過(guò)酷な労働を強(qiáng)いられた。
鉱山では毎日16時(shí)間の労働が科せられ、あまりの過(guò)酷さに半年ほどで200人ほどが死亡した。労働隊(duì)のリーダーであった耿さんは多くの仲間が死んでしまったことに責(zé)任を感じ、死を覚悟の上で700人余りの中國(guó)人を率いて、彼らに過(guò)酷な労働を課していた鹿島組(現(xiàn)鹿島)に立ち向かった。これがのちに言う「花岡事件」である。
日本の投降により無(wú)事故郷に帰った耿さんは、1987年から7度に渡り鹿島を相手取り謝罪と賠償を求めた。紆余曲折を経て2000年に和解が成立したが、鹿島が支払った賠償金は賠償名目ではなく、謝罪もなかったことから、耿さんは抗議する聲明を発表し、賠償金の受け取りを拒否した。同訴訟は戦後中國(guó)の被害者が日本に対して起こした初めての訴訟だった。
耿さんはかねてより、家族に自分が死んだあと體內(nèi)にある弾の破片を寄贈(zèng)してほしいと語(yǔ)っていたため、生前の願(yuàn)いをかなえるため、家族は耿さんを火葬した後に殘った金屬の破片を同省洛陽(yáng)市にある抗日戦爭(zhēng)の記念館に寄贈(zèng)した。記念館の職員は寄贈(zèng)品が戦爭(zhēng)を物語(yǔ)る貴重なもので、今後は展示を行い後世に伝えていきたいと話(huà)した。
このほか、耿さんの息子さんによると耿さんは生前家族に対し、日本は歴史を正面から受け止め、「花岡事件」を含む被害者に謝罪をする必要があると話(huà)していたという。また、一方で日中両國(guó)が交流を深め、友好的な関係を築いて行くことを願(yuàn)っていたそうだ。(翻訳?編集/內(nèi)山)
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