Record China 2012年9月15日(土) 8時(shí)45分
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一週間ほど臺北を訪れ、あるNGOとともに、政治団體や環(huán)境団體を見て回った。その過程で実感したのは、この地域が政治的にもはやお決まりの二項(xiàng)対立路線には収まりきれない、ということだった。
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北京から帰國1週間後、筆者は一週間ほど臺北を訪れた。今度は「観光客はミタ」というほどお?dú)輼Sではない。9月初旬に臺灣関連の集中講義をすることになっており、その準(zhǔn)備も兼ねて、あるNGOとともに、政治団體や環(huán)境団體を見て回った。その過程で実感したのは、この地域が政治的にもはやお決まりの二項(xiàng)対立路線には収まりきれない、ということだった。
【その他の寫真】
△「省籍矛盾」構(gòu)図は本當(dāng)に有効だったのか
今回の視察では、日本が撤退した後の1947年に発生した228事件を記念する二二八記念館、その後50-60年代の臺灣で吹き荒れた白色テロの犠牲者が埋葬されている六張犁公墓、80年代に入っても國際環(huán)境の激変の中である意味犠牲となった知識人の各基金會(huì)、かつての監(jiān)獄を改造した施設(shè)である景美人権文化園區(qū)、といったところを同行メンバーと視察した。一般的な観光コースではないが、人権?民主というものに関心のある向きにとってはかなり典型的なコースだ。なぜこうしたコースに同行するツアーに參加したのかといえば、実のところ自分は臺灣の民主化についてふだんよく言及しながらその內(nèi)実についてそう深く知っているわけではなかったためだ。
通常臺灣で、特に臺灣獨(dú)立派から言及される民主化の原點(diǎn)としては、明清代に中國から臺灣に移住してきた人々の末裔で日本植民地統(tǒng)治の経験者である本省人と戦後國民黨政権とともに臺灣に移住してきた外省人の対立構(gòu)図を浮き彫りにしたとされる228事件が挙げられる。むろんそれは、一定の妥當(dāng)性はあるのだが、反面これまではこの事件は臺灣內(nèi)部における本省人対外省人あるいは臺灣対中國という機(jī)械的な二項(xiàng)対立構(gòu)図に翻訳され、日本國內(nèi)でもこの構(gòu)図に基づいて中國?臺灣関連の研究者やジャーナリストの勢力分布が出來上がってきた。ただこの「省籍矛盾」と言われる構(gòu)図には臺灣人自らが疲れつつあるのではないのか―。
今回実は六張犁公墓を視察し白色テロについて説明を受ける中でこの直感が當(dāng)たっているかもしれないとも考えたりもした。六張犁公墓を案內(nèi)して下さったガイドの方の説明によれば、共産スパイなどの嫌疑をかけられて殺害された白色テロの犠牲者のうち、外省人がかなりの割合を占めているとされる。犠牲者數(shù)も諸説あるため、いずれが正しいのか不明ではあるのだが、少なくとも同墓地に限っては犠牲者數(shù)の割合は本省人6割に対し外省人4割とされる。臺灣全土の人口比から言えば外省人はほぼ1割なので、白色テロの外省人犠牲者數(shù)は臺灣平均を3割ほど上回っていることになるという。こうした経緯があるためか、同墓地のガイドの方に限って言えば、中國大陸や外省人に対する敵対的な感情は見られなかったのがむしろ印象的だった。
全く同じではないが、戒厳令解除後においてなお臺灣獨(dú)立を主張し焼身自殺したジャーナリストを記念する基金會(huì)を訪ねた時(shí)も「省籍矛盾」を安易に當(dāng)てはめるべきではないことを痛感した。非合法雑誌の編集長だったこのジャーナリストはその英雄的行為を見れば一見本省人といってもおかしくはないが、実のところその父親は中國からやってきた外省人だったのである。筆者としては、焼身自殺はその出自上の劣等感的なものからなされた行為だったのではないかとも想像したが、學(xué)蕓員からはその點(diǎn)本當(dāng)に納得の行く説明は得られなかった。なおこのジャーナリストは外省人とは言っても父が福建出身ということもあり臺灣語(福建語)は堪能であり、この點(diǎn)同基金會(huì)が「外省人と本省人の"混血"」と説明していたのは、今なお臺灣をめぐる統(tǒng)一?獨(dú)立イデオロギーに絡(luò)め取られている気はしたが…。
△「緑」に対する失望感
こうしたエピソードを並べてみたのも、日本國內(nèi)で散見される一見分かりやすそうな構(gòu)図に抵抗するためだ。白黒はっきりさせなければならないメディア言説は、本省人―民進(jìn)黨―獨(dú)立志向VS外省人―國民黨―中國統(tǒng)一志向を基本としている。むろんその傾向はあるが、あくまで傾向であり、現(xiàn)実的には様々な変數(shù)によりその組み合わせや濃淡も複雑で連立方程式的なのである。もともと筆者にはこうした理解があったのだが、上記以外の団體から民進(jìn)黨への失望感を耳にするにつけ、ますますその複雑性について確信した。
最もその感を強(qiáng)くしたのはある環(huán)境団體を訪ねた時(shí)だ。臺灣の環(huán)境運(yùn)動(dòng)史は、例えば89年の天安門事件によって多國籍企業(yè)が中國進(jìn)出を躊躇し、東南アジアに進(jìn)出した結(jié)果、この地域の環(huán)境汚染を進(jìn)めることになるなどそれ自體が興味深いのだが、そのことはひとまず置いて、最も印象的だったのは、広報(bào)擔(dān)當(dāng)者の「民進(jìn)黨には失望した。もう期待しない」という言葉だった。この民進(jìn)黨への失望感は以前から聞いてはいたが、ここまではっきり言い切るのを耳にしたのは筆者には初めてのことだった。
野黨時(shí)代の民進(jìn)黨(黨のカラーから「緑」と総稱される)は環(huán)境運(yùn)動(dòng)をはじめとする社會(huì)運(yùn)動(dòng)との連攜により與黨國民黨(同様に「青」と総稱される)への対抗関係を築いてきた。しかし與黨になって以降この対抗関係は政治の現(xiàn)実の中で崩されていく。例えば日本でも一部で注目度の高い第四原発についても、民進(jìn)黨は建設(shè)推進(jìn)への絶対反対という原則を貫けなくなっていった。加えてクリーンイメージで売ってきた民進(jìn)黨が再度下野する大きなきっかけとなったのが陳水扁?前総統(tǒng)周辺が手を染めていたとされる汚職問題である。
なんとか機(jī)能してきた本省人―民進(jìn)黨―獨(dú)立志向VS外省人―國民黨―中國統(tǒng)一志向という二項(xiàng)対立が崩れ始めたのはこの時(shí)點(diǎn)以降だろう。そして下野前後以降、強(qiáng)まりつつある中國の影響力を前に、特に中國がその統(tǒng)一戦略を政治から経済に転じて以降、民進(jìn)黨はかつての強(qiáng)硬な獨(dú)立路線、対中強(qiáng)硬策の変更を余儀なくされつつあり、今では政策上いずれが國民黨でいずれが民進(jìn)黨なのか判然とさえしなくなりつつある。そのありようは日本の民主黨が特に與黨になって以降次々と政策転換を図らざるを得なくなっている狀況とも共通しよう。
このような狀況が先の広報(bào)擔(dān)當(dāng)者の「もう民進(jìn)黨には期待しない」という発言につながっていったのだろう。この擔(dān)當(dāng)者は「我々は第三極を求めている」とも述べた。こうした発言から見てもうとっくに上述の二項(xiàng)対立構(gòu)図は破綻をきたしつつあることが見て取れる。これを前提に積極的に今後の見取り図を書く場合、臺灣は、従來の二項(xiàng)対立を超えた政治的な第三極誕生への胎動(dòng)を孕んでいる…といいたいところだが、そうばかりは言い切れないところもありそうだ。
△「しかたなしの民主」「権威主義への誘惑」?
そう感じるのは別な団體で聞いた「しかたなしの民主」という表現(xiàn)がきっかけだ。その意味するところは、我々(臺灣人)には確実に當(dāng)てになる國家というものがない(日本人主體のツアーだったので「日本とは違って」という含意があったかもしれない)、したがって自らを守るために「しかたなく」民主主義をやっていかざるをえないのだ、という文脈だったと思う。この団體も民進(jìn)黨への失望感を口にしていたが、その時(shí)に一緒に出てきた表現(xiàn)だ。
この時(shí)筆者が思い出したのは、最近一部の西側(cè)論壇で話題になった「討議制民主主義の限界」論だ。討議制(または議會(huì)制)民主主義は美しいが意思決定に時(shí)間がかかる。これに比べると権威主義體制の方がトップダウン式で意思決定に関しては萬事スムーズであり、そうした點(diǎn)だけ見た場合に果たしてこれまで肯定的に捉えられてきた討議制民主主義には本當(dāng)に利點(diǎn)があるのか、という議論だ。他にも議會(huì)に代表されるシステムが果たして本當(dāng)に民意を代表できているのかという論點(diǎn)などもあるが、いずれにせよこうした議論が顕在化してきているのは、大陸中國がいわゆる真の討議制民主主義を経ないまま経済的に臺頭してきている事実が背景にあるだろう。
臺灣の書店でもこの討議制民主主義の限界に関する書籍を何冊か見かけた。また少し前であるが、臺灣を含む中華圏では「権威主義への誘惑」といった議論も話題になったことも記憶している。むろん、こうした論壇での議論に臺灣社會(huì)が全て規(guī)定されているとは思わないし、「討議制民主主義」が行き詰まりを起こしているからといって即座に「権威主義への誘惑」に屈すればよいとは、長年一応は民主主義を刷り込まれてきた筆者個(gè)人は思わない。ただそれを選ぶのは、結(jié)局のところ當(dāng)事者ではない筆者ではなく、現(xiàn)地に死活的な生存のかかっている臺灣地元の當(dāng)事者であり、そこに口を挾むのは內(nèi)政干渉的な行為になるだろう。ただ以下のようなことは言えるかと思う。
臺灣社會(huì)のありようは將來の中國にとって數(shù)ある選択肢の一つにはなっていると思う。本欄でも以前述べたが(第1回)、社會(huì)運(yùn)動(dòng)やメディアをめぐる現(xiàn)在の中國の狀況は、80年代末以降の臺灣の狀況を追っているようなところがあり、雙方の社會(huì)構(gòu)造の違いを思い切って捨象して考えた場合、臺灣が民主化したのなら中國大陸もそうなりうる可能性は多少なりともある。その延長線上で考えるとすれば臺灣が権威主義への回帰を選ぶことが今後あるとすれば、中國がかりに民主化したとしてもやはりある種の「シラケ」を経て権威主義に回帰してしまう可能性を秘めているということだ。そして筆者は個(gè)人的にはその可能性は決して小さくはないと考えているのだが…
そうした文脈においても、臺灣がこのまま「しかたなしの民主」を続けるのか、それとも「権威主義への回帰」を選ぶのか、注視してみる必要はありそうだ。
▲今回訪問した関係団體(繁體字のまま、一部)
鄭南榕基金會(huì)、財(cái)團(tuán)法人陳文成博士紀(jì)念基金會(huì)、景美人權(quán)文化園區(qū)、緑公民行動(dòng)聯(lián)盟
(本田親史/國士舘大アジア?日本研究センター客員研究員<PD>)
●寫真説明 1枚目=白色テロ犠牲者が埋葬されている六張犁公墓。2枚目=かつての監(jiān)獄だった景美人権文化園區(qū)にて。受刑者の拘束に使われていた足かせ。
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