Record China 2018年9月23日(日) 7時0分
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國家文物局水下文化保護センター、遼寧省文物考古研究所などが共同行った調(diào)査で、日清戦爭中の黃海海戦で日本海軍により撃沈された軍艦「経遠」が見つかり、艦名を記したプレート(寫真、舊字體の「経」の文字)などが引き揚げられた。
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新華社によると、國家文物局水下文化保護中心(保護センター)、遼寧省文物考古研究所などが共同で7月から9月に行った調(diào)査で、日清戦爭中の黃海海戦で日本海軍により撃沈された軍艦「経遠」が見つかり、艦名を記したプレートなどが引き揚げられた。
【その他の寫真】
日清戦爭が勃発したのは1894年。日本にとっては明治維新で本格的な近代化に著手して初めての本格的な戦爭だった。戦闘は豊島沖海戦、成歓の戦い(陸戦)、平壌の戦い(陸戦)といずれも日本軍が勝利。次の黃海海戦で清國側(cè)は北洋艦隊の主力艦をほとんど失い、黃海と渤海灣の制海権を事実上失った。日本の連合艦隊の損失は3隻大破、1隻中破など。
経遠は、日清戦爭時の北洋艦隊中、「定遠」(沈沒)および同クラスの「鎮(zhèn)遠」(日本軍が接収)に次ぐ規(guī)模の裝甲巡洋艦?!附U遠」の発見は、日清戦爭で沈沒した清國側(cè)軍艦として2014年の「致遠」に次ぐ成果とされる。「経遠」の調(diào)査では、各種砲弾や銃弾も引き揚げられた。
なお、「経遠」発見の具體的な場所は明らかにされていない。中國ではこれまで、水中考古學(xué)の成果として発見された沈沒船が「盜掘」の被害に遭う件が発生している。
日清戦爭は中國では甲午戦爭と呼ばれ、近代史における日中関係では「屈辱の始まり」などと理解されている。主な敗因は清朝政府の腐敗と無能とされ、現(xiàn)在の中國が軍備を拡充せねばならない論拠の一つとみなされている。
日本軍は黃海海戦後、遼東半島西側(cè)の付け根にある牛荘(現(xiàn)、営口市)まで侵攻し、場合によっては清國首都の北京を攻略しかねない情勢になった。そのため清國は講和を決意。責(zé)任者の李鴻章が日本に赴いて講和條約を結(jié)んだ(日本側(cè)通稱は下関條約、清國側(cè)は馬関條約)。
下関條約の第1條は清國が朝鮮について完全無欠な獨立國であることを認めること、第2條は「遼東半島」「臺灣全島と附屬する島」「澎湖諸島」の日本への割譲を定めた。第3條以下では清國側(cè)の賠償金支払いや日本側(cè)の撤兵の段取りなどが定められた。
現(xiàn)在の中國は、「臺灣全島と附屬する島は下関條約により日本に割譲された」ことを根拠に、尖閣諸島は「臺灣全島に附屬する島」の一つとして、臺灣と同様に中國に返還されねばならないと主張している。つまり、中國では尖閣諸島の「奪還」が、日清戦爭に始まる「屈辱の対日近代史」を清算する意味があると理解されている。
しかし下関條約に定められた領(lǐng)土の割譲で、臺灣に距離約50キロメールの澎湖諸島を臺灣とは別に扱っている。臺灣からはるかに遠い尖閣諸島(約170キロメートル)を「臺灣全島に附屬する島」と解釈することには不自然さがある。(翻訳?編集/如月隼人)
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