改革開放初期の中國(guó)人は、なぜ日本を憎まなかったのか―中國(guó)エッセイ

Record China    2012年12月12日(水) 14時(shí)17分

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11日、80年代の改革開放初期、中國(guó)人の対日感情は今よりも良好だった。その理由について考察したエッセイがある。寫真は80年代の日本語勉強(qiáng)會(huì)。寫真は中國(guó)のジャーナリスト、王錦思(ワン?ジンスー)氏より提供。

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2012年12月11日、1980年代初頭、中國(guó)人が日本製品を持っていれば、それはステータスと富の象徴であった。各部門は日本人ビジネスマンを暖かく迎え、日本人の禮儀正しさ、有能で精力的な姿に大きな敬意を払っていた。それが今は…。以下は、2004中國(guó)雑文年選のエッセイから。

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民族間の歴史的怨恨は、時(shí)間とともに衰え、風(fēng)化していくのが普通だが、中日が親密に交流するようになって30年あまりが経ち、國(guó)民感情はおよそ真逆の方向に変化してきた。両國(guó)民の感情がここまで悪化した理由ははっきりしないが、「日本の右翼がのさばっている」というのは説明にはならない。

A級(jí)戦犯は1978年10月に靖國(guó)神社に合祀され、中曽根康弘首相が戦後初めて靖國(guó)神社を公式參拝したのは1985年8月15日である。これだけ深刻な「先例づくり」を行った事件が、當(dāng)時(shí)の中日関係や國(guó)民意識(shí)の形成にはさほど影響していなかった。

つまり、中國(guó)人は日本の「右翼の橫行」に、現(xiàn)在ほど敏感でなかったといえる。貿(mào)易摩擦については、摩擦が起こるほどの貿(mào)易のあるほうが、摩擦もない貿(mào)易しか存在しないよりもよほど良いだろう。

中國(guó)人が日本を恨むことを適切でないとしたのは、「內(nèi)因」による。1960?70年代、中國(guó)政府は日本を米國(guó)の傀儡だとして、重要な敵とはみなさなかった。まずは米國(guó)、そしてソ連を憎むような宣伝が行われた。「民族の恨み」は段階を経て二つの超大國(guó)に集中した。

抗日文學(xué)や映畫も少なくなかったが、日本軍の蠻行を暴くのではなく、ゲリラ戦の成果を強(qiáng)調(diào)することに重點(diǎn)が置かれた。1972年に中日國(guó)交正?;瑢g現(xiàn)したが、當(dāng)時(shí)の國(guó)民は疲弊しきっており、國(guó)全體が満身創(chuàng)痍だった。そして、日本の技術(shù)や製品によって、彼らは中國(guó)が時(shí)代から大きく取り殘されていることを知った。日本の化學(xué)肥料は各家庭に普及し、電化製品は中?上流層の「教材」となった。

改革時(shí)代を前にして、日本は中國(guó)にとって最初の教師となった。 改革開放で敵國(guó)を受け入れた理由は単純だ?!袱猡Δⅳ螭噬瞍悉搐幛螭馈工趣いλ激い摔郅胜椁胜ぁV袊?guó)人は、平和と和解、貧困からの脫出と成長(zhǎng)こそが真に素晴らしいものであることに気付いた。過去のことは水に流そう。我々は生き方を変える必要がある。だからこそ、日本人、とくに善意と富をもたらしてくれる日本人を歓迎したのである。

対外心理の近代化、客観的、実務(wù)的、雙方に利のある指導(dǎo)理念は、中國(guó)人の根本的利益に合致する。日本の友好団體の素樸な一言で言えば、「日中不再戦」である。改革開放當(dāng)初の中國(guó)人は、今よりももっと成熟して、堂々としていたのではないだろうか。そう、あれは九死に一生を得た後の落ち著き、苦しみと貧しさを経てきた後の闘志であった。(翻訳?編集/岡本悠馬)

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