Record China 2018年12月28日(金) 6時(shí)0分
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26日、韓國(guó)の東亜日?qǐng)?bào)は、朝鮮半島の遺跡で初めて、日本の古墳時(shí)代を代表する遺物、人物埴輪が出土したと報(bào)じた。寫(xiě)真は咸平郡。
2018年12月26日、韓國(guó)の東亜日?qǐng)?bào)は、朝鮮半島の遺跡で初めて、日本の古墳時(shí)代(3世紀(jì)中頃~7世紀(jì)頃)を代表する遺物、人物埴輪(はにわ)が出土したと報(bào)じた。
記事によると、出土したのは全羅南道(チョルラナムド)咸平(ハムピョン)郡にある金山里(クムサンリ)方臺(tái)形古墳(5世紀(jì)末~6世紀(jì)中頃。馬韓の支配層の墓と推定される)で、馬形埴輪1點(diǎn)も同時(shí)に見(jiàn)つかった。同古墳では2014年にも、鶏などをかたどった形象埴輪が出土している。
人物埴輪の形は鳥(niǎo)取県で出土したものに類(lèi)似しているといい、発掘調(diào)査を行っている全羅南道文化観光財(cái)団の全羅南道文化財(cái)研究所は「古代日韓関係史の研究における新たな契機(jī)になる」と評(píng)している。今回の出土の背景については「6世紀(jì)まで百済の勢(shì)力圏に吸収されることなく、朝鮮半島南部で獨(dú)自の影響力を行使した馬韓の勢(shì)力が、活発に國(guó)際交流を行っていたことを示す痕跡だ」と説明している。
また同研究所の所長(zhǎng)は、古代朝鮮半島南部の「任那(みまな)」に日本の統(tǒng)治機(jī)関があったとする「任那日本府」説を日本の一部學(xué)界が主張していることにも觸れた上で、「統(tǒng)治権力を示す遺物や古墳群などが見(jiàn)つかっておらず、考古學(xué)的証拠は皆無(wú)だ」とコメントしている。
この他、今回は扁瓶や動(dòng)物の形の土器も同時(shí)に出土しており、主に日本の4~5世紀(jì)の古墳で出土している土器「須恵器」の系列と確認(rèn)されたという。朝鮮半島の土器とは明らかに形狀が異なるといい、韓國(guó)伝統(tǒng)文化大學(xué)のソ?ヒョンジュ教授は「日本人が朝鮮半島に渡ってきて焼いたのか、日本で焼いた土器が持ち込まれたのかについては、さらなる究明が必要だ」と話(huà)している。
この記事に、韓國(guó)のネットユーザーからは「朝鮮半島から日本に渡ったものが、日本で先に発掘されたのかもしれないのに、記事の書(shū)き方がちょっと問(wèn)題では?」「こっちから文化が渡ったんだ」「古代の日韓交流が、朝鮮半島から日本へという一方向だけだったはずがない。當(dāng)然、日本の文化も朝鮮半島に入ってきていただろう。朝鮮半島から日本へ行った渡來(lái)人がいたように、日本から來(lái)て定著した人々もいると思う」「その時(shí)代の朝鮮半島南部が、日本と密接な関係があったというのは、事実みたいだな」などの意見(jiàn)が寄せられている。また、「任那日本府は本當(dāng)にあったということか?」というコメントも多く見(jiàn)られた。(翻訳?編集/麻江)
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