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吉林省の省都で政治、経済、文化の中心都市?長春は、1932年に誕生した傀儡國家?満州國の首都として日本によって建設(shè)され、1945年の敗戦まで新京と呼ばれた。寫真は長春の舊満州國時代の建物(筆者撮影)。
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昨年12月に中國の東北地方を訪問、各地を取材し多くの人たちと交流した。瀋陽から長春までは300キロ余り。最高時速350キロの高速鉄道は途中一駅止まっただけで、東京―名古屋間とほぼ同じ距離をおよそ1時間で長春駅に滑り込んだ。
【その他の寫真】
◆凍てついた平原に巨大風(fēng)力発電所
途中、車窓からは凍てついた平原や畑が広がり、時折農(nóng)家の集落が點(diǎn)在する風(fēng)景が見えた。風(fēng)力発電所も數(shù)カ所あり、それぞれ巨大風(fēng)車のプロペラが50~60基回っていた。火力発電所の巨大施設(shè)や工場も點(diǎn)在していた。
吉林省の省都で政治、経済、文化の中心都市?長春は、1932年に誕生した傀儡國家?満州國の首都として日本によって建設(shè)され、1945年の敗戦まで新京と呼ばれた。
市內(nèi)には新京時代の建築物が多く殘っている。新市街とそれを包囲する形で商埠地(清政府が外國人居留地として指定?開放した地域)が配置され、新たに執(zhí)政を行う官公所などの多くの公的機(jī)関はこの商埠地に設(shè)置された。米國の首都ワシントンをモデルにつくられ、日本によって道路や鉄道、路面電車などの交通インフラが整備され発展した。
1945年にソ連対日參戦で満洲國が崩壊すると新京は再び長春と改稱され、ソ連軍の占領(lǐng)下で進(jìn)出していた中國共産黨が同年11月15日に長春市政府を設(shè)立した。國共內(nèi)戦では毛沢東軍による長春包囲戦を受け、長春一般市民の3分の2に相當(dāng)する數(shù)十萬人が餓死する大慘事となった。その結(jié)果、1948年からは人民解放軍の勢力下に置かれ、1949年に中華人民共和國が成立すると、長春は吉林省の省都となった。
◆「満州國テーマパーク」の様相
現(xiàn)在、満州國當(dāng)時の皇宮や國務(wù)院、司法部、経済部、外交部、交通部、満州國中央銀行、郵便局や関東軍司令部、南満州鉄道などの建物がそのまま殘っており、中國政府や銀行、大學(xué)などの建物などとして活用されていた。いずれの建物も豪壯な石づくりの特徴のあるデザインで、中國、日本、西洋の城郭にも似ている。計(jì)畫都市だけに大きなロータリーを中心に大通りが放射狀に延び、大公園も隨所に配置されさながら「満州國テーマパーク」の様相をみせていた。利水ダムや下水道、幹線道路など、社會インフラの基盤が現(xiàn)在でも活用されている。
満州國皇帝に即位した愛親覚羅溥儀が執(zhí)政した舊満州國皇宮は日本の建築技術(shù)で建てられた建物や庭園が殘されている?!競螠夯蕦m博物院」として観光名所となっており、多くの観光客で賑わっていた。建物の中には中國最後の皇帝溥儀の當(dāng)時の生活や歴史などが展示され、「ラストエンペラー」の數(shù)奇な生涯が甦る。
1906年、溥儀は清朝11代皇帝光緒帝の弟?愛新覚羅載灃(さいほう)の子として北京で生まれた。時の最高権力者?西太后から皇帝に指名された溥儀は、1908年に紫禁城で12代皇帝宣統(tǒng)帝として即位した。この時、わずか2歳10カ月。母親の元から引き離された溥儀は、ここで皇帝としての教育を受けた。
1912年の「辛亥革命」によって250年以上続いた清朝が滅亡?;实郅巫蜃筏铯欷郡猡韦?、革命後も中華民國政府に紫禁城での生活が認(rèn)められたが、1924年11月、軍事クーデターの影響で宮殿から退去を命じられ、溥儀は、結(jié)婚したばかりの妻とともに天津の日本租界へと移った。1931年9月18日、「満州事変」が勃発すると、日本の関東軍は短期間で中國東北部を占領(lǐng)。この地を中國本土から切り離し、新たな國家を建設(shè)しようと計(jì)畫。関東軍が新國家の元首として迎えたのが、清朝最後の皇帝?溥儀だった。満州の地は、清朝の発祥の地でもあり、溥儀は清朝再興を目指しこれに応じた。
1945年8月9日、ソ連が「日ソ中立條約」を反故し、対日參戦。関東軍の主力はすでに満州にはなく、圧倒的なソ連軍の侵攻の前に、満州國はなす術(shù)がなかった。溥儀たちはソ連軍から逃れるため、首都の新京を放棄し、南に向かった。その後溥儀は投獄されたのち、釈放され61歳まで生きたが、その悲劇的な生涯が人形やイラストの形で展示されていた。
◆自動車、高速鉄道の製造拠點(diǎn)に
現(xiàn)代の長春は人口750萬人。戦後、中國大手自動車メーカーである中國第一汽車集団の本社が設(shè)立され、トヨタ、マツダ、獨(dú)フォルクスワーゲン?アウディが第一汽車との合弁?技術(shù)提攜などの形で進(jìn)出、これらの自動車メーカーを取り囲むように多くの部品関連メーカーが立地、自動車を中心とする工業(yè)都市として発展してきた。中國で急拡大する高速鉄道の製造拠點(diǎn)もあり、「ものづくりの街」として生まれ変わった。一方、「科學(xué)技術(shù)文化の城」とも呼ばれ、大學(xué)、科學(xué)研究所、文化施設(shè)が多く、吉林大學(xué)、東北師範(fàn)大學(xué)など著名な大學(xué)が所在している。
また長春は映畫産業(yè)の拠點(diǎn)としても重要。満州國の満州映畫協(xié)會(満映)は、満州國の正當(dāng)性や建國理念の五族協(xié)をアピールする記録映畫や劇映畫をつくった。李香蘭(山口淑子)は絶世の中國人美女役で人気女優(yōu)となった。戦後はレンガ造りの建物やスタジオを引き継ぎ長春映畫撮影所となり、共産黨革命の成果を鼓舞したり、國民の感涙を誘ったりする中國映畫産業(yè)の一大拠點(diǎn)の役割を果たした?,F(xiàn)在、長影舊址博物館として中國映畫の変遷やスターの寫真や胸像などを展示、シネマコンプレックスも併設(shè)する人気の観光スポットとなっていた。
この中國東北地方訪問時、極寒の季節(jié)で連日零下15~20度。1945年の秋から冬にかけた過酷な気候下、逃避行を余儀なくされる中で、ソ連軍などの略奪?暴行に遭った満蒙開拓団、そして取り殘された殘留孤児の悲劇も忘れてはならない。戦爭によって女性や子どもなど一般市民が犠牲になった歴史を、関係者から聞き、侵略と戦爭がもたらした悲慘な歴史を改めて思い知った。
(続く)
■筆者プロフィール:八牧浩行
1971年時事通信社入社。 編集局経済部記者、ロンドン特派員、経済部長、常務(wù)取締役編集局長等を歴任。この間、財(cái)界、大蔵省、日銀キャップを務(wù)めたほか、歐州、米國、アフリカ、中東、アジア諸國を取材。英國?サッチャー首相、中國?李鵬首相をはじめ多くの首脳と會見。東京都日中友好協(xié)會特任顧問。時事総合研究所客員研究員。著?共著に「中國危機(jī)ー巨大化するチャイナリスクに備えよ」「寡占支配」「外國為替ハンドブック」など。趣味はマラソン(フルマラソン12回完走=東京マラソン4回)、ヴァイオリン演奏。
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2018/12/3
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