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昨年12月に中國の東北地方を訪問、各地を取材し多くの人たちと交流した。舊満州で、戦爭の爪痕が殘る地域。侵略や戦爭によって女性や子どもなど一般市民が犠牲になったが、中でも日本人殘留孤児の悲劇は筆舌しがたい。寫真はハルビン市內(nèi)。
昨年12月に中國の東北地方を訪問、各地を取材し多くの人たちと交流した。舊満州で、戦爭の爪痕が殘る地域。侵略や戦爭によって女性や子どもなど一般市民が犠牲になったが、中でも日本人殘留孤児の悲劇は筆舌しがたい。
1945年8月15日に太平洋戦爭が終わると、戦場や植民地支配下だった「外地」には、兵士と民間人合わせて700萬人近くが取り殘された。「開拓団」「銃後の民」などと稱され、日本から移住した家族にとって、苦しい人生の始まりだった。混亂の中、中國大陸や朝鮮半島で引き裂かれた家族からは、殘留孤児?婦人が相次いだ。
舊満州は1931年の満州事変によって日本が占領(lǐng)した中國東北部地域である。日本は翌32年、清朝最後の皇帝?愛新覚羅溥儀を執(zhí)政とした傀儡國家の満州國を建設(shè)。日本政府は全國の農(nóng)村から移住者を募り、「満蒙開拓団」として送り込んだ。満州に行けば広い農(nóng)地が所有できると次男や三男などが新天地を求めて渡った。入植地の6割以上は元來中國人が耕作していた農(nóng)地などを安価で強(qiáng)制的に買収したもので、追い出された中國農(nóng)民の中には匪賊となり、開拓地を度々襲撃、命を落とした開拓民も多かった。
◆ 満蒙開拓団の3割が犠牲に
開拓民の運(yùn)命が暗転したのは、日本の敗戦が決定的になり、1945年8月9日にソ連軍が「日ソ中立條約」を一方的に破って対日參戦してから。満州を守っていた日本軍(関東軍)がいち早く撤兵した。當(dāng)時成年男子は徴兵されており、殘された女性や子ども、老人は逃避行したものの、ソ連兵や現(xiàn)地人に襲撃されたり餓死?衰弱死したりした。終戦當(dāng)時満州にいた日本人は約155萬人。そのうち満蒙開拓団は27萬人でその3割以上が死亡したとされる。
こうした中、親と死別したり生き別れたりして現(xiàn)地に取り殘された子どもたちが殘留孤児となった。孤児となり中國の養(yǎng)父母に育てられたり、やむなく中國に殘ることとなった人も多かった。1945年の終戦當(dāng)時ハルビンで殘留孤児となったKさん(現(xiàn)在78歳)が苦難と復(fù)活の日々を語った。
私(Kさん)は1945年の終戦時、5歳だった。父(終戦時35歳)はハルビンのはるか北西、札蘭屯近くの開拓地に1941(昭和16年)に家族と共に入植した。父は戦況が悪化した1944年初めに北方へ応召され、殘されたのは母(36歳)と姉(11歳)と兄(9歳)弟(2歳)の5人だった。
終戦とともにソ連軍が開拓地に侵攻してきた。一家は他の開拓民とともに野宿しながら徒歩で拠點(diǎn)都市ハルビンを目指した。5歳の子供には辛い行軍。私は「もう足が動かないよ」と泣きだした。すると母が「寒いからね。足をさすって動かせば動くようになるよ」とやさしく勵ましてくれたのをかすかに覚えている。
途中、極度の食料不足で栄養(yǎng)失調(diào)になった弟が衰弱死。わずか2年の命だった。殘った4人でようやくハルビンにたどり著き、集合場所の伊勢丹百貨店に落ち著いた。満州の北方に位置するハルビンの晩秋はめっぽう冷え込む。
しばらくして無理がたたったのか、母が體調(diào)を崩し亡くなった。おにぎりがすぐ氷りつくほどの寒い日だった。當(dāng)時母は36歳。三男を失った上に幼い子ども3人を殘して力盡きた…。さぞや殘念だったろう。母の遺體は馬車で運(yùn)ばれていった。子どもだけ3人が殘された。今から考えれば1945年12月頃だと思う。
馬車で運(yùn)んでくれた中國人の人たちが、孤児となった子どもの引き取りを希望する中國人に「もらいたい人はいませんか」と聲をかけた。姉、兄と私の3人はそれぞれ別の中國人に引き取られ別れ別れになった。どこに行ったか、後年になるまでわからなかった。
その後、私が引き取られたのは、ハルビン郊外で牛馬を中心とする獣醫(yī)醫(yī)院を経営する一家。妻と年上の娘4人がいた。男の子がいない家は潰れるという風(fēng)習(xí)が殘っていた時代で、養(yǎng)父としては將來への期待があったのかもしれない。しかし養(yǎng)母やその娘たちから、私は徹底的にいじめられた。
◆極寒の朝、飯炊きからトイレ掃除まで
朝は5時に起きてかまどに火をつけて飯を炊き、トイレ掃除をやらされた。冬のハルビンは零下25度になる極寒の地。トイレは外なので辛かった。養(yǎng)父は仕事で家にいないことが多く、養(yǎng)母と姉妹が肉まんを食べているときでも、自分にはトウモロコシを固めた食事しか與えられなかった。夜寢床でやさしかった亡き母のことを想い涙ぐんだ。自分に年が近い3番目のご義姉(三女)がやさしくしてくれたのと、養(yǎng)父がボールペンや鉛筆をたまに買ってくれたのが救いだった。布団も干してもらったことがないほどで、體調(diào)を崩し、子どもには珍しい帯狀皰疹と診斷されたこともあった。
現(xiàn)地の小學(xué)校に通ったが、絵が得意で勉強(qiáng)もできたので、先生や近所の人にはかわいがられた。16歳になった時に、近所のおばあさんたちが早く家を出た方がいいと、官舎つきの就職先を紹介してくれ就職試験に合格した。入社したのは水利ダムや石油掘削に適する場所を探査する會社で、夏は馬車で各地を回り、冬はハルビンの宿舎で作業(yè)した。18歳の時、「吉林省水利工程局」に転職、ダムを造る仕事でやりがいのある任務(wù)を任された。
職場の先輩の奧さんが目をかけてくれ、「早く結(jié)婚したほうがいい」と知り合いを紹介され1958年に結(jié)婚した。妻は気立てがよく、家事その他をきちんとこなした。私が18歳、妻は17歳だった。會社がある長春の社宅で新居を構(gòu)えた。1男2女に恵まれ幸せな日々を過ごした。
◆訪日し実父を捜したが…
中國人孤児であると言われ、中國人の名を付けられて育ち、日本人であるとの認(rèn)識は全くなかったが、絶望の淵に立たされる出來事が起きた。1968年に、會社に勧められて共産黨に入黨申請をし、戸籍資料などをそろえた際、日本人の殘留孤児であることが判明した。中國人孤児と思い込んでいたため大きなショックを受けた。その頃は文化大革命の真っ最中。戦時中に日本軍に侵略され肉親を殺された人も多くいて、日本人というだけで罵られた時代だった。自殺しようと思った。離婚も考えたが、妻を紹介してくれたお姉さんが「子どももいるから離婚させませんよ」と言われ踏みとどまった。共産黨への入黨はできなかったが、會社は日本人であることを極秘扱いにしてくれ、仕事を続けた。
1945年に離別した兄弟のうち姉(終戦時11歳)は裕福な中國人実業(yè)家に育てられ、比較的幸せな子ども時代を送った。兄(9歳)も近郊の家に引き取られたが16歳の時に病死した。いずれも後でわかったことだ。
実父は応召先のチチハルで終戦を迎え、3年間シベリアに抑留された後、帰國し出身地の大阪に居を構(gòu)えた。厚生省に再三出向いて家族の安否を長年探し回ったが、殘した子供たちの行方は分からず、結(jié)局あきらめたようだ。
やがて1972年の日中國交回復(fù)などにより日中関係が正?;?、3人の子どもにも恵まれた私は姉の行方を探し始めた。そして親戚の力添えもあってハルビン近郊に居住していることをつきとめた。再會したのは別れ離れになってから実に40年近い1984年のことだった。その頃はトウ小平の改革開放路線が軌道に乗り、日中関係が最も良好だった時代?!溉毡救恕工刃丐驈垽盲泼麃\ることができ、誇らしい気持ちになった。
1981年から厚生省が中心となって中國殘留孤児の訪日肉親捜しがスタート、多くの殘留孤児が日本を訪れて肉親を探すようになった。私は1988年に中國在留日本人孤児訪日調(diào)査団の一員として訪日したが、ようやく探し當(dāng)てた実父は既に死亡していた――。
◆「永遠(yuǎn)の不戦」を目指そう
筆者は話を聞いて思わず感情移入した。第2次世界大戦で7000萬人が亡くなり、日本人310萬人が命を落とした。中國人は1000萬~2000萬人と推計(jì)されている。戦爭は軍隊(duì)だけでなく弱い子どもと家族が犠牲になる。
日本は明治維新になってから、日清、日露、日中?太平洋戦爭と1945年の第2次世界大戦敗戦まで約九年間に一度戦爭していた計(jì)算。そして戦後73年、主要國で日本だけが戦爭をしなかった。戦後の平和は貴重であり、「永遠(yuǎn)の不戦」を目指すべきである。一方、中國は改革開放以來の40年で飛躍的な発展を遂げた。文字通り「世界のリーダー國」に躍り出た今、習(xí)近平政権が掲げる?人類運(yùn)命共同體?の理念をさらに進(jìn)化させ、政治経済面での國際協(xié)調(diào)と軍拡抑制などを具體化する必要がある。
今回の中國東北地方訪問では中國のメディア関係者とも議論し、これらの點(diǎn)に留意しながら、正確な情報を発信すべきだとの點(diǎn)で一致した。対外侵略や戦爭は絶対阻止しなければならないとの思いを新たにした取材旅行だった。
(完)
■筆者プロフィール:八牧浩行
1971年時事通信社入社。 編集局経済部記者、ロンドン特派員、経済部長、常務(wù)取締役編集局長等を歴任。この間、財界、大蔵省、日銀キャップを務(wù)めたほか、歐州、米國、アフリカ、中東、アジア諸國を取材。英國?サッチャー首相、中國?李鵬首相をはじめ多くの首脳と會見。東京都日中友好協(xié)會特任顧問。時事総合研究所客員研究員。著?共著に「中國危機(jī)ー巨大化するチャイナリスクに備えよ」「寡占支配」「外國為替ハンドブック」など。趣味はマラソン(フルマラソン12回完走=東京マラソン4回)、ヴァイオリン演奏。
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