日本と中國、高速鉄道をめぐる「歴史的な縁」―中國コラム

Record China    2019年2月16日(土) 8時10分

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14日、財新網(wǎng)は、「日中高速鉄道の歴史的な縁」と題した、中國のコラムニスト?蕭西之水氏によるコラムを掲載した。

2019年2月14日、財新網(wǎng)は、「日中高速鉄道の歴史的な縁」と題した、中國のコラムニスト?蕭西之水氏によるコラムを掲載した。以下はその概要。

中國の高速鉄道技術(shù)の主な源の1つが日本の新幹線であることは言うまでもない。そして面白いことに、日本の新幹線もある意味では中國の大地から生まれたのである。なぜなら、新幹線の技術(shù)開発に攜わった重要な人物である第4代國鉄総裁の十河信二氏も、國鉄の技師長だった島秀雄氏の父である島安次郎氏も「満鉄」こと南満州鉄道株式會社の理事を務(wù)めた人物だからだ。

鉄道建設(shè)が始まったころ、歐州で1435ミリメートルの軌間が標(biāo)準(zhǔn)軌とされつつあるなか、資金の足りない日本は1067ミリメートルの狹軌を採用せざるを得なかった。しかし、狹軌は高速運転で車體が不安定になることから運転速度を上げることができなかったため、1910年ごろに鉄道院総裁の後藤新平が標(biāo)準(zhǔn)軌への変更に向けた研究を指示。そこに島安次郎氏が參加していた。結(jié)局、軌間の変更よりも鉄道路線を拡大して選挙票を拡大したかった政治家らに反対され、1919年には國會で改軌案は否決されてしまった。

挫折した安次郎氏は鉄道員を辭し、中國大陸の「満鉄」に目を付けた。1932年に満州國が建設(shè)されると、1934年には日本本土の特急列車よりはるかに速い、標(biāo)準(zhǔn)軌を利用した最高時速130キロの特急「あじあ號」が営業(yè)を開始した。安次郎氏は「あじあ號」の開発で名を挙げると、39年には本土の鉄道幹線調(diào)査會特別委員長となり、東京から下関までを最高時速200キロで結(jié)ぶ標(biāo)準(zhǔn)軌の弾丸列車路線計畫を作り上げた。しかし、戦況の悪化に伴い1943年に計畫は全線中止となり、総責(zé)任者だった安次郎氏も1946年にこの世を去った。

安次郎氏による弾丸列車の夢を引き継いだのは、息子の秀雄氏だった。1925年に鉄道省に入省して蒸気機(jī)関車の設(shè)計に攜わるが、1937年の歐州視察で電動車の必要性を痛感。戦後の1950年に80系電気機(jī)関車を開発してその後の電車発展の礎(chǔ)を築くと、1955年には父の同僚だった十河氏が國鉄総裁に就任したのに伴って國鉄技師長の職に就いた。そして、59年には15年で5000キロメートルあまりの路線を電化する「動力近代化計畫」をまとめるとともに、戦前の弾丸列車計畫に參加していたことから東京―大阪間の新幹線建設(shè)計畫の指揮者を任された。

秀雄氏は技術(shù)不足を補(bǔ)うべく大量の技術(shù)者を歐州に派遣。繰り返し學(xué)習(xí)と模倣を重ね、ついに完全な高速鉄道技術(shù)體系を作り上げた。そして、世界に類を見ない時速210キロで走る日本の0系新幹線列車が開発され、新幹線の開業(yè)が1964年の東京五輪開催に華を添えることになったのである。

それから50年、日本の高速鉄道距離はすでに世界一の座から陥落してるが、中國の大地で誕生した高速鉄道に対する思考は、今世紀(jì)の10年代に入って中國各地で花を開き、中國社會のさらなる発展を促す存在になったのだ。(翻訳?編集/川尻

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