工藤 和直 2019年3月13日(水) 23時(shí)20分
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湖北省荊州市は、上海と四川省成都市を結(jié)ぶ東西の線と北京と海南島を結(jié)ぶ南北の線が交わる地點(diǎn)にある。まさに中國(guó)の中心部にある?,F(xiàn)在の荊州市周辺は長(zhǎng)江文明が栄えた地であった。6000年前の大渓文化や屈家?guī)X文化の遺跡が出土している。
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湖北省荊州市は、上海と四川省成都市を結(jié)ぶ東西の線と北京と海南島を結(jié)ぶ南北の線が交わる地點(diǎn)にある。まさに中國(guó)の中心部にある?,F(xiàn)在の荊州市周辺は長(zhǎng)江文明が栄えた地であった。6000年前の大渓文化や屈家?guī)X文化の遺跡が出土している。また春秋戦國(guó)時(shí)代、楚の首都「郢:えい」はこの周辺にあった。秦が楚を「荊:けい」と改稱(chēng)したのが地名の始まりである。
【その他の寫(xiě)真】
春秋時(shí)代、周王朝の次の覇者にならんと中原で晉と斉が戦う中、長(zhǎng)江中流域にあった楚國(guó)は獨(dú)立した王國(guó)として存在した。貨幣に「金」を使ったように、非常に豊かな國(guó)であった(寫(xiě)真1)。文公14年(紀(jì)元前613年)と昭公23年(紀(jì)元前519年)に春秋左氏伝に「郢に城く」とあるように、楚はその首都を度々遷都、その都度「郢」と名付けた。その場(chǎng)所は現(xiàn)在「紀(jì)南城遺跡」として確認(rèn)される。その城壁は、ほぼ方形で一辺が3.5km~4.5kmの長(zhǎng)さであった。この城壁は現(xiàn)在の荊州市の北にあり、周辺の山々には楚王以外漢の貴族の墓などが見(jiàn)られる。
戦國(guó)時(shí)代に入り強(qiáng)國(guó)になった秦は、紀(jì)元前278年將軍「白起」を送り、紀(jì)南城を攻めた。楚國(guó)は新たに紀(jì)南城の南方1kmほどの新しい「郢城」を造営した。(地図1)の寫(xiě)真は、その西城壁遺構(gòu)であるが、高さは3~4m、幅は15mほどの土塁であった。この「郢城」は荊州駅のすぐ北(やや北東)にある。
三國(guó)時(shí)代には魏?呉?蜀(蜀漢)三國(guó)の境界の地となった。荊州を征する者が天下をも征すると言われ、荊州牧として劉備玄徳から信任されていた関羽は、呉王「孫権」によって捕えられ斬首、荊州を失った劉備玄徳は結(jié)局天下を取ることは出來(lái)なかった。
この「関羽」が最初に城郭都市を作ったといわれる。(地図2)にあるように、堀の周?chē)旒s11kmに渡り、城壁と城門(mén)を見(jiàn)ることができる?,F(xiàn)在の高速鉄道「荊州駅」のほぼ南方向で、6つも門(mén)から構(gòu)成されている。何と言っても特徴は、城壁と城門(mén)そして樓閣(東門(mén)と北門(mén))が存在する事である。しかも城門(mén)は、二重構(gòu)造(門(mén)が二つあり)になっており、中に入る敵兵を上から射殺すことが出來(lái)る(寫(xiě)真2)。この構(gòu)造を見(jiàn)ることで、中國(guó)內(nèi)にかつてあった大半の城門(mén)は、このような設(shè)計(jì)であったと推定できる。
6つの門(mén)では東門(mén)が迎賓門(mén)で、ここに賓陽(yáng)樓と言う樓閣がある。その南に小東門(mén)(公安門(mén))、そこをしばらく行くとちょうど南門(mén)となる。そこから西に行くと西門(mén)(安瀾門(mén))となり、そこから北に行くと樓閣のある大北門(mén)(拱極門(mén))となる。大北門(mén)の前にある橋が得勝橋である。常勝將軍「関羽」はこの門(mén)から出発し、常に勝って戻って來(lái)たという。そこを東に行くと小北門(mén)(遠(yuǎn)安門(mén))となる。1周歩いても3時(shí)間半ほどである?,F(xiàn)在、自動(dòng)車(chē)専用に東と北に新門(mén)が作られている。現(xiàn)在の城壁は清充順治帝代(1646年)に再建され、周?chē)旒s10km?高さ8.8m×幅10mにもなる。
この荊州城內(nèi)には博物館があり、6000年に渡る歴史遺産を見(jiàn)ることができる。その中でも前漢時(shí)代の男性ミイラと明代末の尼僧と思われる女性ミイラが展示されている。この女性の皮膚は500年後の今でも生きているが如くである(地図2左上)。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國(guó)で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國(guó)電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國(guó)江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、蘇州市ある日系2500社、約1萬(wàn)人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問(wèn)として中國(guó)関係會(huì)社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國(guó)関係會(huì)社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國(guó)や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會(huì)を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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工藤 和直
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