<コラム>山東省炭鉱の町、かつて日本人居留地“坊子”があった

工藤 和直    2019年4月3日(水) 23時(shí)50分

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山東省炭鉱の町にはかつて日本人居留地“坊子”があった

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ドイツは清國(guó)と「膠噢借條約?を締結(jié)した翌年の1899年に、青島から済南までの膠済鉄道の起工式を行った。膠済鉄道の敷設(shè)工事は、民間會(huì)社である山東鉄道株式會(huì)社が5400萬(wàn)マルク(現(xiàn)在価格で1600億円)を投入して行われ、青島?済南間430キロメートルの本線工事、張店(淄博)?博山40キロメートルの支線工事は1901年に青島から坊子まで、更に1902年には張店(淄博)と博山までの支線敷設(shè)、1904年には青島?済南間の全線敷設(shè)が完工し、青島駅舎も建設(shè)されて盛大な開通式が挙行された。

その他の寫真

膠済線は青島を出ると、膠州?高密を過(guò)ぎやや遠(yuǎn)回りするように“坊子”に左折し、その後北の濰県(濰坊)に向かう。遠(yuǎn)回りする理由は石炭の採(cǎi)掘に関係があった。坊子駅(寫真1)から南西1kmの坊子炭鉱で採(cǎi)掘された石炭は、積み出し駅として坊子駅に持ち込まれた。坊子駅は膠済線で最も重要な駅の一つであった?,F(xiàn)在も構(gòu)內(nèi)に“ぼた山”が取り殘され、石炭の臭いがする。また構(gòu)內(nèi)には広大な操車場(chǎng)が殘っていた。

坊子炭坑はドイツが山東省で最初に採(cǎi)掘を開始した石炭鉱山であった。ところが、この坊子炭鉱鉱脈の出炭量が急に減り、閉山の方向に進(jìn)んだ。この急な閉山によって、人々が忽然と消えて濰県(濰坊)他に移住した。それが、“街の廃墟”とつながった。時(shí)間はその時(shí)から止まったままだ。かつての坊子駅は、今は貨物駅として営業(yè)されている。坊子駅舎正面左から駅構(gòu)內(nèi)に入る事ができ、昔のままの駅構(gòu)內(nèi)を探索することが可能だ(寫真2)。

濰坊市“坊子”の街は北東の駅に始まる。東西に伸びる膠済線から南の長(zhǎng)寧街までの2km、東側(cè)は運(yùn)河から西は北海路まで4kmの約8kmに“日本人居留地”があった。(地図1)のように、駅の前から一から七までの馬路が膠済線に並行に続く。一馬路は駅前通りで、駅や鉄道関係の庁舎や倉(cāng)庫(kù)が並んでいる。駅前から西に行くと蔦の葉で覆われている“橫田旅館”があった。一馬路西端には日本家屋が多く見られる。そこから文化路を斜めに下ると三馬路の交差點(diǎn)に出る。街のメインストリートは三馬路であった。南東に“日本電燈公司”の廃墟が見える。南西にきれいな徳建豪華住宅「坊茨(Fang Tze)小鎮(zhèn)」が並び、その入口に「坊子徳日建築群」の石碑があった。1918年7月11日創(chuàng)建の坊子神社は、三馬路にあったと記載されており探索したが、痕跡はなかった。

坊子には日本人が1006人、戸數(shù)は399戸で、膠済線沿線では済南に次いで日本人が多かった。その人口構(gòu)成は教員を含む官衙関係者が268人で、家族婦女子が520人、炭鉱勤務(wù)者は53人、その他様々な商売人が104人居た。坊子には新設(shè)の“尋常高等小學(xué)?!保▽懻?)があったが、ドイツ統(tǒng)治時(shí)代はドイツ醫(yī)院軍管學(xué)校であった。その施設(shè)を租借権が移った1914年以降、日本人學(xué)校とした?,F(xiàn)在はドイツ人住宅「坊茨小鎮(zhèn)」の入口になっている。當(dāng)時(shí)の教員數(shù)?児童數(shù)に関しての記録はないが、日本人婦女子520名の半分程度として100人ほどの児童がいたのだろうか。當(dāng)時(shí)の門柱がガラスケース內(nèi)に保存されているのを見て、少し異様な感じがした(寫真4)。

學(xué)校の北側(cè)に“日軍醫(yī)院跡”があり、まるで野戦病院跡である。更に西に行くと鉄道踏み切りがある。その角の北側(cè)にメルヘンチックな“ドイツ軍司令部跡”があり、ちょうど改裝中であった。周囲のドイツ建築物は改裝中が多いが日本建築物はそのまま放置されている。その南側(cè)に唯一改裝中の“日本領(lǐng)事館坊子出張所跡”の建屋があった。二階建てレンガ作りである。南側(cè)が玄関となっており、車留めの前に噴水のような池があった。坊子まで青島市內(nèi)から車で2時(shí)間ほどである。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國(guó)で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國(guó)電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國(guó)江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、蘇州市ある日系2500社、約1萬(wàn)人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問(wèn)として中國(guó)関係會(huì)社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國(guó)関係會(huì)社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國(guó)や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會(huì)を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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