Record China 2019年3月31日(日) 23時(shí)30分
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中國陸軍が平謝りだ。SNSで、革命や戦爭などで命を落とした「烈士」を回顧?顕彰する式典を紹介する際に、戦爭中に対日協(xié)力の政権を運(yùn)営したことで裏切者とされる汪兆銘(1883-1944年、寫真)の詩を引用してしまったからだ。
中國陸軍が平謝りだ。SNSで、革命や戦爭などで命を落とした「烈士」を回顧?顕彰する式典を紹介する際に、汪兆銘(1883-1944年)の詩を引用してしまったからだ。汪兆銘は若くから革命に身を投じたが、日中戦爭中に日本と協(xié)調(diào)する南京國民政府を樹立したことから、中國を含め中華圏では「漢姦(=民族の裏切者)とされている。中國メディアの環(huán)球時(shí)報(bào)がSNSを通じて、2019年3月29日付で紹介した。
汪兆銘は1904年から05年まで清朝の官費(fèi)留學(xué)生として日本に滯在した際に、孫文の思想に觸れ革命運(yùn)動(dòng)に従事するようになった。中國では、この時(shí)期から使うようになった王精衛(wèi)の號で知られる。1910年には北京市內(nèi)で清朝の重要人物だった醇親王を爆破暗殺しようとしたが失敗して捕らえられた。
汪兆銘は死刑を覚悟し、獄中で革命に命を捧げる心意気を訴える「被逮口占」という題の詩を作った。しかし革命派との融和を図る清朝上層部の思惑により終身禁固刑に減刑され、1911年に辛亥革命が勃発した直後に清朝側(cè)の恩赦により釈放された。
汪兆銘は國民政府の有力者となったが、革命政府からの離脫と再參加を繰り返した。ただし、日本との協(xié)調(diào)を常に主張したため、反対派に銃撃され重傷を負(fù)うことも経験している。最終的には蔣介石が率いる國民政府とは別に、日本との協(xié)調(diào)を旨とする南京國民政府を樹立し責(zé)任者になる。しかし、銃撃された際の傷が遠(yuǎn)因とみられる骨肉腫を病み1944年11月に死去した。
中國陸軍は29日、江蘇省南京市內(nèi)にある雨花臺烈士陵園で行った、軍人約100人を動(dòng)員して革命や日中戦爭を含む戦爭、國民黨との內(nèi)戦で命を落とした「烈士」を回顧し顕彰する式典をSNSを通じて紹介した際に、汪兆銘の「被逮口占」を引用した。雨花臺烈士陵園は南京國民政府時(shí)代に、反汪兆銘派の工作員やスパイとされた者が処刑された場所でもあった。
中國陸軍側(cè)が式典の紹介文に汪兆銘の詩を引用したことを、多くのネットユーザーが指摘。陸軍側(cè)は文章をただちに削除し「投稿された文章を使った。編集者の文化素養(yǎng)が劣り、チェックも厳格でなかったために、引用文の出典をしっかりと確認(rèn)しなかった。深刻な錯(cuò)誤を引き起こし、非常に大きなマイナスの影響を発生させた。ここに深くお詫びいたします」と全面的に謝罪した。(翻訳?編集/如月隼人)
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