<コラム>おら、中國(guó)にある“東京”に行ったさ??!

工藤 和直    2019年4月10日(水) 19時(shí)50分

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東京は“東の都”を意味する語(yǔ)である。現(xiàn)在では日本の首都「東京」を指す事が多いが、他に歴史上に「東京」と呼ばれた都市は多く存在する。

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東京は“東の都”を意味する語(yǔ)である。現(xiàn)在では日本の首都「東京」を指す事が多いが、他に歴史上に「東京」と呼ばれた都市は多く存在する?!笘|京」は中國(guó)においては「洛陽(yáng)」または「開(kāi)封」を指す場(chǎng)合が多い(ただし北方の征服王朝[遼?金]に東京遼陽(yáng)府がある)。北宋(西暦960~1127年)は、東京開(kāi)封府?西京河南府(洛陽(yáng))?南京応天府(徐州)?北京大名府(濮陽(yáng))の4つの都を置く四京制を敷いた。その東京開(kāi)封府は現(xiàn)在の河南省「開(kāi)封市」である?,F(xiàn)在でも雅稱として開(kāi)封を「東京」と呼ぶことがある。

その他の寫(xiě)真

開(kāi)封の歴史は3500年ほど前、夏王朝第七國(guó)王であった“予”が老丘(今の開(kāi)封一?。─剡w都、以後232年間國(guó)都として栄えたことから始まる。開(kāi)封の名の由來(lái)は紀(jì)元前8世紀(jì)の春秋時(shí)代“鄭の荘公”が城を築いた事に始まる。戦國(guó)時(shí)代に晉から分離した魏の領(lǐng)國(guó)となり、紀(jì)元前341年“大梁”と名づけられ國(guó)都となった。

紀(jì)元前225年、秦の攻撃で大梁は落城し都市も荒廃した。東魏時(shí)代には梁州、北周時(shí)代には“汴州”(べんしゅう)と呼ばれた。隋代になり、大運(yùn)河が開(kāi)通すると一気にこの都市の重要性は高まり、南からやってくる物資の大集積地として栄えた。唐末期に國(guó)都長(zhǎng)安は荒廃、それに代わってこの都市が全中國(guó)の中心地となった。唐から簒奪した朱全忠は後梁を建て、その後の五代の政権も後唐を除いてこの地を“汴京”(べんけい)と稱して首都とした。

宋代、趙匡胤は“東京開(kāi)封府”と改名して國(guó)都とした。これが東京の名前が使われた発端になる。東京開(kāi)封府は拡張され、三重の城壁が都市を取り囲んだ。大運(yùn)河の一部も引き込まれ、水運(yùn)によって米を始めとした大量の物資が江南地方より運(yùn)び込まれ、開(kāi)封には國(guó)中の物資が集まり、空前の繁栄期を迎えた。11世紀(jì)後半、世界最大級(jí)の都市になった。

北方の金が開(kāi)封を占領(lǐng)し南宋と対峙すると、南北分?jǐn)啶摔瑜盲拼筮\(yùn)河も荒廃した。モンゴル帝國(guó)により攻められて領(lǐng)土の大半を奪われた金は、この地に遷都して抵抗を続けたが、程なく滅ぼされた。金と元は首都を北京(中都?大都)とし、開(kāi)封はあくまで河南の一地域となった。

元が中國(guó)を統(tǒng)一すると、杭州と大都を短絡(luò)する形で大運(yùn)河が再建され、南京応天府であった徐州から北に運(yùn)河が作られた。開(kāi)封は大運(yùn)河路から外れた。明代には周王府が置かれ壯麗な建築物が作られたが、明末の黃河大氾濫により土中に沒(méi)した。その後、清代に周王府跡に龍亭が建てられた。明?清時(shí)代も河南省の省都となったが、中華人民共和國(guó)が誕生すると鄭州が省都となった?,F(xiàn)在、都市の6m下に明代の都市が眠っており、その下(地上から10m)には宋代の都市があり、全部で6層が積み重なっているのは、黃河がたびたび氾濫したからである。黃河は、時(shí)として開(kāi)封市の南を流れた時(shí)期もあった。

「宋都開(kāi)封の舊城と舊城空間について(久保田和男)」によると、北宋時(shí)代東京開(kāi)封府は、三重の城壁に囲まれていた。新城(外城)?舊城(內(nèi)城)?宮城(大內(nèi))である(寫(xiě)真1)。宮城は南北がほぼ一直線であるが、舊城や新城(外城)の東西の城壁は東に約10度程度傾いている。舊城は周囲11kmほどであり、臺(tái)形になっている(南北城壁はほぼ平行)。舊城內(nèi)になる宮城(大內(nèi))は唐の長(zhǎng)安を模して作られ、南門(mén)が朱雀門(mén)となっている。不思議なことに、宮城(周囲2.5km)の前に、“御街”という幅300mになる大道があったことだ。唐の長(zhǎng)安も承天門(mén)街と言う街路があるが、御街は大道と言うより広場(chǎng)の感が強(qiáng)い。

新城(外城)は周囲25kmにもなる大城壁であった。五代末から北宋初期は都市空間の成長(zhǎng)と、舊城(內(nèi)城)から政府?軍部施設(shè)の拡大や一般庶民の人口増大に対応するため、さらに大きな都市空間を形成させた。新城が設(shè)置される事によって、舊城の城壁は防衛(wèi)上の役割がなくなり、平素の生活上の治安維持を目的とした城壁となった?,F(xiàn)在、開(kāi)封市は観光地として栄えている(地図1)。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國(guó)で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國(guó)電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國(guó)江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、蘇州市ある日系2500社、約1萬(wàn)人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問(wèn)として中國(guó)関係會(huì)社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國(guó)関係會(huì)社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國(guó)や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會(huì)を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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