<コラム>蘇州日本人學校、95年の変遷(盤門南から石路、そして高新區(qū)へ)

工藤 和直    2019年5月4日(土) 21時0分

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蘇州に日本人學校が初めてできたのは、95年前の1924年(大正13年)に遡る。

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蘇州市高新區(qū)にある日本人學校(淮海路×玉山路)は、2013年2月26日に新校舎移転記念式典を行った。開校は2005年4月14日で、金山路の校舎で第1回入學式(児童生徒63名)が行われた。筆者は2013年3月9日の卒業(yè)式に蘇州日商倶楽部會長として來賓答辭を行い、故郷の漢學者「安井息軒」の逸話をした記憶がある。

その他の寫真

現(xiàn)在、海外には全日制で文部科學大臣が認定した86校の日本人學校が在る。戦前、中國大陸には舊満州(終戦時邦人200萬人)や山東青島や関東州租借地と8つの日本人租界地に、數(shù)多くの日本尋常小學校が存在した。現(xiàn)在は、北京(1976年)に始まり、天津(1990年)?大連(1994年)?広州(1995年)?青島(2004年)?蘇州(2005年)?深セン(2008年)?杭州(2008年)と8つだけである。

蘇州に日本人學校が初めてできたのは、95年前の1924年(大正13年)に遡る。日清戦爭後1897年3月5日、蘇州に日本人租界地(借用期間30年)が設立した?!冈谕獗景顚W校関係雑件蘇州小學?!工摔瑜毪?、1921年(大正10年)に蘇州日本居留民會が小學校設立要請を外務大臣宛に行い、1923年(大正12年)12月10日に設立許可を得て、1924年(大正13年)4月1日に「蘇州日本居留民會立蘇州日本尋常高等小學?!工瑒?chuàng)立、6月1日に正式開校した。當時の教員1名、児童數(shù)5名であった。

小學校は、日本人租界地(盤門南の青暘地:寫真1)の西端に作られ、第26中學(南環(huán)実験中學)が尋常高等小學校跡になる。ちょうど地下鉄3號線人民路南駅出口に正門がある。日本人租界地はここから東に南門路の南、南園路まで約32ヘクタールであった(地図1)。日本領事館は小學校の2ブロック東にあり、當時の集合寫真に租界に住む邦人と児童達が寫っている(寫真2)。

初代校舎は中國式の建物を借用したが、児童が倍増することが予測され、1926年(大正15年)4月21日付けで蘇州日本人居留民會橋本高三郎會長が在蘇州日本領事巖崎栄蔵に提出した「日本人小學校ニ関スル調査報告ノ件」によると、同年4月10日に新築校舎竣工と記載されている。全面モルタル塗裝仕上げで壁は黒レンガ、內部は木造作り、建坪75.5坪で北向きに正面玄関があった?,F(xiàn)在、公安警察署がある場所が北門になる。

在蘇州邦人は日中戦爭前まで100名程度で推移、1934年(昭和9年)の記録では邦人78名、尋常小學校生徒22名とある。1938年(昭和13年)を過ぎると急激に邦人が増えている。この背景には1937年(昭和12年)7月7日から始まった日中戦爭に大きく関係がある。日本軍は、8月16日から10月末までに130回以上に渡り、當時の繁華街の閶門やその郊外の石路を空爆、11月24日に日本軍は蘇州入城儀禮式を行った。中國軍(國民黨軍)は撤収にあたり、蘇州焦土作戦を展開、閶門や石路を含む50カ所近い繁華街を放火して退卻した。

その後、この焦土に日本人が入り再建、1938年には562名、1939年には2437名、1940年には4276名と増大した。當然ながら児童數(shù)も増大、1940年(昭和15年)6月25日付けで日本政府外務大臣宛に「蘇州日本居留民會立小學校新築ニ関スル件」を送り、外務省補助金をはじめ蘇州の國策會社、商社、個人から小學校建設の寄付を集めた。

建築申請場所は蘇州城外呉県金門大馬路の黃家巷(現(xiàn)在の石路閶胥路に面する狹い地域)と城內の打銭巷(現(xiàn)在の第四中學付近)の2カ所であった。日本人租界地でなく、蘇州駅に近い交通便が良い繁華街が選ばれた。

九州大學箕浦永子「戦前期における蘇州日本尋常高等小學校の建設」によると、「蘇州日本高等尋常小學校新築工事仕様書」から、総建坪は454.8坪で長方形の敷地に南中央に校門、その北に運動場、その北が校舎となって、教室は採光の面から南と東向きである。校舎は黒レンガでレンガとレンガの間は白色のモルタルが塗られ、灰白のボーダー入りで、屋根は赤瓦であった。外側はレンガであるが內部は木造作りであった。

「黃家巷」は蘇州地名録から閶胥路に面する狹い地域で學校には不向きだが、金門大馬路が蘇州駅に向かう方向に、1892年創(chuàng)立のアメリカミッション系萃英中學(萃英書院)があった?,F(xiàn)在、寒山寺に行く上塘街と楓橋路?義慈巷とに囲まれた場所に蘇州第五中學(地下鉄2號線石路駅西)があり、構內には多くの赤レンガ作りの古風な校舎(1927年日本軍空爆で破壊され戦後に再建)が見られる。西門近くに(寫真3左上)のような鼠色レンガで作られた古い校舎跡があり、これが日本尋常小學校跡地でないかと予想される。學校としての利便性も考慮し、申請場所に近い空爆で破壊された萃英書院跡を借用したものでないか。

現(xiàn)在、楓橋路の西は人民解放軍北兵営となっており、戦前は日本軍兵舎でもあった。兵舎には三角屋根で平屋鼠色のレンガ兵舎が並立しており、日本人尋常小學校建屋と類似構造だと一目で分かる。日本尋常小學校は、1924年(大正13年)に日本人租界地にてスタートし、最後は1940年(昭和15年)に閶門西の石路で新校舎が竣工したのであろう。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學大學院工學研究科修了。韓國で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會社を指導する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演會を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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