工藤 和直 2019年7月11日(木) 23時(shí)50分
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重慶の日本人租界地を訪れた。
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宋王朝時(shí)代の西暦1189年、時(shí)の皇帝が「慶びが重なった」と言う意味で恭州を「重慶府」と改名して830年になる。重慶の歴史は古く、夏?殷?周時(shí)代は巖塩採(cǎi)掘が行われ、巴國(guó)文明が誕生した。巴國(guó)は春秋戦國(guó)時(shí)代、東隣の楚國(guó)と常に戦い続けてきたが、紀(jì)元前316年秦の恵文王は巴國(guó)を滅ぼし、巴國(guó)の支城の一つであった江州城を築城した。この城跡は、北の嘉陵江と南の長(zhǎng)江が合流する「朝天門(mén)?付近であった(寫(xiě)真1は現(xiàn)在の朝天門(mén))。
【その他の寫(xiě)真】
漢時(shí)代は江州と呼ばれ、三國(guó)時(shí)代には蜀の劉備玄徳の所領(lǐng)となり、諸葛孔明がここに駐屯することもあった。隋?唐時(shí)代は渝水(今の嘉陵江の名)沿いにあるという事で「渝州」と呼ばれた。以後、重慶の地は「渝」と言われるようになった。宋時(shí)代に重慶と改名されたが、最大の危機(jī)は西暦1259年南宋末にモンゴル帝國(guó)が四川方面から南下、成都城と重慶本城(江州城)を取り囲んだ時(shí)であった。この時(shí)はモンゴル皇帝の病死で一端は撤退するが、2回目の1278年についに落城した。
重慶本城(江州城)は北東部「朝天門(mén)」から西部の「通遠(yuǎn)門(mén)」間の巖山を利用した要害の地である。江州城は朝天門(mén)、東水門(mén)、太平門(mén)、通遠(yuǎn)門(mén)など17の門(mén)から成り、支城として嘉陵江対岸になる江北城と西部の山城の三つから構(gòu)成されていた(地図1)。この巖山を長(zhǎng)江や嘉陵江の河側(cè)から攻めるのは不可能に近く、西側(cè)から攻めるしかない。この西部にある通遠(yuǎn)門(mén)(寫(xiě)真2)が最大の激戦地となった。10m近い絶壁に囲まれ、攻めるに困難な城ではあったが、西暦1276年に南宋王朝はすでに広州で滅び、モンゴル軍の猛攻でついに降伏、城內(nèi)の多くの兵士?住民が慘殺されたという。
清末になると、英國(guó)をスタートに諸外國(guó)の中國(guó)大陸侵略が始まる。1876年9月13日に結(jié)ばれた煙臺(tái)條約により英國(guó)領(lǐng)事館を開(kāi)設(shè)、1890年には重慶港が開(kāi)港する。1891年3月1日には、朝天門(mén)付近に稅関が開(kāi)設(shè)された。1896年7月の通商航海條約により、仏國(guó)?米國(guó)?日本が領(lǐng)事館を開(kāi)設(shè)した。日本領(lǐng)事館はどこにできたか明確ではないが、おそらくは英米領(lǐng)事館付近(現(xiàn)在の通遠(yuǎn)門(mén)內(nèi)の渝中區(qū)領(lǐng)事巷)にあったと予想する(寫(xiě)真3)。1896年2月、上海総領(lǐng)事の珍田舎己が重慶に赴き、日本専管租界地要求の交渉に入った。1901年9月24日に重慶領(lǐng)事官山崎桂が、22カ條の重慶日本商民租界約書(shū)を結(jié)ぶに至り、ここで日本専管租界地開(kāi)設(shè)の一歩となった。
日本専管租界地は、重慶府朝天門(mén)北部の南岸區(qū)「王家沱」となった。(寫(xiě)真4)は當(dāng)時(shí)の長(zhǎng)江沿い租界地で、遠(yuǎn)くに朝天門(mén)が見(jiàn)える。現(xiàn)在は朝天門(mén)長(zhǎng)江大橋を江北區(qū)から渡り、衛(wèi)國(guó)路南にある武警重慶総隊(duì)醫(yī)院(寫(xiě)真5)付近にあたる。大橋を渡った長(zhǎng)江岸壁南浜路から東に1320m、南に350mの長(zhǎng)方形の敷地(約467,000m2)である。日本租界に面した「公共通商場(chǎng)」跡地の南に、フランス水師営建屋(寫(xiě)真6)がある。武警醫(yī)院の中にわずかであるが、日本人建屋の痕跡があるが、資料にあった稅務(wù)署や日軍倶楽部跡を見(jiàn)つけることはできなかった。1937年日中戦爭(zhēng)時(shí)に100名程引き揚(yáng)げたと記録があるように日本人街があった予想するが、その痕跡はなかった。蘇州?杭州と同じく日本の面影が乏しい租界地跡である。
租借期間は30年で、租借金は一畒(666m2)あたり上等地で銀150元、中等地で145元、下等地で140元であった。おそらく長(zhǎng)江に近い場(chǎng)所は高く、東の丘側(cè)は安くなっていると予想する。22カ條の條約の詳細(xì)を見(jiàn)るも、治外法権の上に日本領(lǐng)事官の裁量による所が多く、「警察権」が非常に強(qiáng)大であった。契約期限は1931年の9月24日であったが、國(guó)民黨政府が7月30日に強(qiáng)制的に沒(méi)収して、重慶日本人租界地は終了した。最後の交渉に當(dāng)たったのが清野長(zhǎng)太郎領(lǐng)事であった。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國(guó)で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國(guó)電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國(guó)江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、蘇州市ある日系2500社、約1萬(wàn)人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問(wèn)として中國(guó)関係會(huì)社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國(guó)関係會(huì)社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國(guó)や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會(huì)を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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工藤 和直
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