英軍艦の上陸申請史料、尖閣諸島の主権が中國であると証明―中國専門家

Record China    2013年5月31日(金) 18時5分

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31日、中國青年報は香港アジア太平洋研究センターの鄭海麟主任が尖閣諸島の主権に関して書いた文章を掲載した。資料寫真。

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2013年5月31日、中國青年報は香港アジア太平洋研究センターの鄭海麟(ジョン?ハイリン)主任が尖閣諸島の主権に関して書いた文章を掲載した。以下はその內(nèi)容。

その他の寫真

信頼できる琉球の歴史文獻(xiàn)によると、日本が武力で琉球を併呑した100年以上前、英國の軍艦が琉球諸島と釣魚臺列島(日本名?尖閣諸島)や花瓶嶼など東シナ海沿岸諸島嶼に上陸するには、事前に福州の琉球館を通じて福建布政司に申請をしなければならなかった。すなわち、まず中國政府(當(dāng)時琉球は中國の屬國だった)の許可を得て初めて上陸できたということだ。

1845年6月、英國の軍艦「サマラン」が琉球國の八重山列島の與那國島を出発し、14日に石垣島に到著した。同日夜、エドワード艦長は花瓶山の位置を確認(rèn)するため海図を開いた。花瓶山から釣魚臺列島までの測量が航海の目的だった。15日に釣魚臺(日本名?魚釣島)に到著したが、艦長は花瓶山と誤認(rèn)した。艦長はこの島について標(biāo)高363mと報告しているが、これは現(xiàn)在の釣魚島(日本名?魚釣島)と同じであり、花瓶山は標(biāo)高51mしかない。翌日には黃尾嶼(日本名?久場島)に到著したが、艦長はこれが釣魚嶼(日本名?魚釣島)だと思った。標(biāo)高118mと報告しているが、これは現(xiàn)在の黃尾嶼と同じくらいだ。

エドワード艦長はこの測量結(jié)果を詳細(xì)に記録し、1848年にロンドンで出版した。これは釣魚臺列島(日本名?尖閣諸島)についての世界最初の科學(xué)調(diào)査報告だろう。1855年、英國海軍はこの記録を基に海図を作製し、『臺灣と日本との間の島々及びその隣接海岸』に収録した。

英國軍艦サマランの八重山および釣魚臺列島(日本名?尖閣諸島)の測量に関する傍証を、筆者は琉球初の編年史『球陽』巻二十一に見つけた?!呵蜿枴护摔瑜毪去单蕙楗螭闻為Lは在福州英國領(lǐng)事館のジョージ?トラデスカント?レイ(中國名?李太郭)領(lǐng)事と琉球國中山王駐福州琉球館の館員を通じて福建布政司に上陸測量の申請をし、許可を得た後に出発した。

上述の英國海軍の文書と琉球國正史から、中國が古來より釣魚臺列島(日本名?尖閣諸島)の領(lǐng)有権を有していたことについて、以下の証拠を示すことができる。

第1、日本人が琉球を併呑する以前、英國人が釣魚島(日本名?魚釣島)に上陸するには、事前に福州の琉球館を通じて福建海防官(布政司と都撫両院)に申請文書を提出しなければならなかった。すなわち直接琉球國中山王府に申請するのではなく、中國政府の同意を得なければならなかったということだ。これは釣魚島(日本名?魚釣島)が決して「無主の地」ではなく、その主権が中國に屬することをはっきりと示している。

第2、英國軍艦のエドワード艦長の使用した海図を見ると、釣魚島及びその附屬島嶼の名稱は全て福建語発音の中國名を使用している。これらの島々を最初に発見、命名、利用したのは日本人ではなく中國人であるはずだ。

第3、當(dāng)時の文書は日本が琉球を併呑する以前、琉球人も英國人も釣魚島及びその附屬島嶼が中國の島々であり、英國人が上陸調(diào)査の際に中國政府に申請をしなければ法律違反であることを知っていたことを物語っている。また、琉球と臺灣の間に「無主の地」は全く存在しなかったことも物語っている。

第4、サマランが中國政府の許可を得て釣魚島(日本名?魚釣島)に上陸してから39年後の1884年に、日本人が釣魚島(日本名?魚釣島)に初めて上陸し、同島が「無人島」であることを確認(rèn)したと主張したうえ、「無主の地」と見なしたというのは、全く歴史を顧みず、國際法を曲解する、でたらめ極まる話である。(提供/人民網(wǎng)日本語版?翻訳/NA?編集/內(nèi)山)

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