<コラム>武漢にある日本國領(lǐng)事館跡を訪ねて

工藤 和直    2019年7月18日(木) 23時(shí)50分

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武漢三鎮(zhèn)(武昌?漢陽?漢口)は中國の要(かなめ)の位置にある。北京と広州を結(jié)ぶ南北直線と上海と重慶を結(jié)ぶ東西直線の交差點(diǎn)がちょうど武漢である。

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武漢三鎮(zhèn)(武昌?漢陽?漢口)は中國の要(かなめ)の位置にある。北京と広州を結(jié)ぶ南北直線と上海重慶を結(jié)ぶ東西直線の交差點(diǎn)がちょうど武漢である。長江の支流は武漢に集まり、南京から上海に流れる大長江となる。中國四千年の歴史の中、政治?軍事面で「中京事あれば武漢の地先ず亂る」とか「之(武漢)を得る者は興り、之を失う者は亡ぶ」といわれた様に、あの辛亥革命(1911年10月10日)は武昌蜂起を発端とする。遠(yuǎn)く三國時(shí)代に呉王「孫権」が武昌に都を移したのは、ここを制する者が中華(天下)を制するという考えであったからだ。

その他の寫真

アヘン戦爭後の南京條約(1842年)によって、上海?寧波?福州?アモイ?広州の5港が開港、天津條約(1858年)により內(nèi)部の南京?漢口?鎮(zhèn)江?蕪湖を含む10港が開港するに至り、漢口は対岸の武昌に比べ漁村に過ぎない地域だったが、その後80萬人が居住する大都會(huì)へ変貌して行く事になった。

漢口租界地は、英國が1861年に當(dāng)時(shí)の清國に対し半永久的に土地割譲を?qū)g施したのに始まる。その後、獨(dú)國が1895年(日清戦爭後の三國干渉のお禮として清國が提供)、仏國?露國が1896年に、最後に1896年日清通商航海條約後の1898年に日本専管租界地の開設(shè)に至った。

漢口日本人租界地は諸國に遅れた事もあり、獨(dú)國租界地の北に沿った低濕地で荒地であった(地図1)。東は長江、西は京漢鉄道までの長方形の領(lǐng)域である。1906年(明治39年)當(dāng)時(shí)、邦人數(shù)は660名、1914年(大正3年)には1380名となり、他の4カ國に比べても最も多い外國人であった。遅れて発展した事もあり、主要銀行や商社などは英國租界地にあった(最初の日本國領(lǐng)事館は仏國租界地に設(shè)立)が、多くの日本式建屋が建設(shè)された?,F(xiàn)在、中央部を走る勝利街の両側(cè)に多くの日本人が住んでいた建屋が確認(rèn)できる。この付近には郵便局?マッチ工場?西本願(yuàn)寺?漢口神社?日本人學(xué)校などがあった。漢口より1年早く開設(shè)された杭州?蘇州の日本人租界地跡に行っても、日本人が住んでいたと言う痕跡が見られないが、ここ漢口にはレンガ造りの建屋や日本家屋?軍官宿舎跡など多くが現(xiàn)存しており、當(dāng)時(shí)の街の風(fēng)景を想像できる(寫真1)。居留民増加の背景には、1906年には日本郵船による神戸?漢口定期航路が開設(shè)されたのもある。

日本國総領(lǐng)事館(寫真2)はドイツ租界地に面し長江沿い(沿江大道234號)に作られ、現(xiàn)在は武漢匯申大酒店(Wesun hotel)となっている(寫真3)。ドイツ領(lǐng)事館は現(xiàn)在武漢市政府の敷地內(nèi)、仏國領(lǐng)事館もホテルとなって現(xiàn)存する。武漢科技技術(shù)館付近には橫浜正金銀行跡も現(xiàn)存している。1938年(昭和13年)10月27日日本軍による武漢占領(lǐng)直前、國民黨軍は日本人租界地にあった重要施設(shè)を爆破した。領(lǐng)事館は鉄柵門以外爆破、同じく本願(yuàn)寺や漢口神社(寫真4)なども崩壊した。その後再建が進(jìn)むが、1943年に日本人租界地は汪兆銘政権に引き継ぐこととなった。日本以外の列國の租界地は、1914年に獨(dú)國、1924年に露國、1927年に英國の順に回収され、特別1區(qū)?2區(qū)?3區(qū)と変名し武漢市に編入された。仏國は日本と同じく1943年に汪兆銘政権に引き継がれた。

上海を除けば(當(dāng)時(shí)上海の邦人は10萬人)漢口に1380名の邦人が居住した。10年間で2倍になり、日本人小學(xué)校(當(dāng)時(shí)の中街6號)も設(shè)立された。1913年10月には「漢口居留民団立漢口明治尋常高等小學(xué)校並同校付屬幼稚園」が設(shè)立され、1918年(大正7年)には幼稚園34名?尋???4名?高等科6名の合計(jì)124名、1925年(大正14年)には幼稚園50名?尋???80名?高等科19名の合計(jì)249名に教員數(shù)10名と記録されている。また上級の「中學(xué)校高等女學(xué)校商業(yè)學(xué)?!工胜嗓卧O(shè)立にも奔走し、1940年(昭和15年)には青年學(xué)校、翌年には高等女學(xué)校が設(shè)立された。當(dāng)時(shí)の漢口は上海に次ぐ規(guī)模であり、中國內(nèi)で有事が起こり在留邦人に危機(jī)が迫ると、上海か漢口に一時(shí)避難する事が多く見られた。

漢口最大の危機(jī)は1927年(昭和2年)4月3日に起きた漢口事件で、2名の日本水兵が原因で日本人租界地での略奪?暴行?破壊事件が起こった。また、この付近は元々低濕地で1931年長江大洪水時(shí)に多大の被害が日本租界で出たと記録がある。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會(huì)社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會(huì)社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會(huì)を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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