<コラム>“徐州徐州と人馬は進(jìn)む”、徐州にあった日本領(lǐng)事館跡を訪ねる

工藤 和直    2019年8月2日(金) 1時(shí)0分

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徐州にあった日本領(lǐng)事館跡を訪ねた。

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徐州(江蘇?。─瞎糯?、彭城と呼ばれ、五帝の一人「黃帝」が最初に都を置いたといわれる。春秋時(shí)代は宋國の一つの都市として繁栄し、悼公の後に商丘から彭城に遷都したこともあった。明天啟4年(1624年)黃河が大洪水を起し、4年後に水が引いたがそれまでの古代都市は5m地下に埋沒した。清康煕7年(1668年)大地震が発生し、56年後に復(fù)舊した?,F(xiàn)在の城郭は清嘉慶年間に作られ、古代から継承した四つの門(東西南北)があり、東門は河清門、西門は通汴門、南門は迎恩門、北は武寧門と稱し、城壁2丈3尺(7.5m)×幅1丈1尺(3.6m)×堀3丈(9.9m)あった。

その他の寫真

清嘉慶5年(1797年)頃の(地図1)を見ると、徐州城周囲は14里半(7.3km)で、中央は半円形(南側(cè)は直線)の形狀をしている。その周囲に、増?jiān)O(shè)された土城が外城の様につながっている。東門は現(xiàn)在の大同街東端「徐州市人民舞臺」の東側(cè)にあった。東門の外に黃河があったので「河清門」とも呼ばれた。徐州府外城図から見ると、4門の外に半月狀の出城がそれぞれあり、現(xiàn)在の老東門はその出城門のひとつで、出城內(nèi)に現(xiàn)在の老東門商業(yè)施設(shè)がある。また、東南角には快哉樓、南西角には燕子樓を造営した。太平天國の亂(1851年)には砲臺を各所に設(shè)けた。1928年、國民黨軍が城壁城門を軍事上の理由で破壊したが、現(xiàn)在東南部「快哉亭公園內(nèi)」に150mの城壁が殘っている。

徐州老東門(淮海東路104號)は、當(dāng)時(shí)の地図1で見ると半月狀出城の北門にあたる。1939年7月、老東門から入った正面約100mの位置に日本徐州領(lǐng)事館(中野高一領(lǐng)事)が設(shè)立された。その左に憲兵隊(duì)本部(老東門4號樓)があった。1945年終戦後、國民黨軍作戦指揮部となり、解放後は軍管大院軍隊(duì)某部隊(duì)機(jī)関が駐留した。軍事施設(shè)のため2011年までは內(nèi)部に入ることはできなかったが、現(xiàn)在は商業(yè)街(門の左がケンタッキー)となり、當(dāng)時(shí)のままの日本式洋風(fēng)樓、禮拝堂、ヒマラヤ杉や楠木の大木が殘っている。また大同街に隣接する辺りに、清代の煉瓦造り城壁跡を確認(rèn)できる。老東門內(nèi)には、終戦後の國民黨?共産黨軍の軍事建屋遺跡などを見る事ができる。日本領(lǐng)事館建屋跡前に立つ大きなヒマラヤ杉を見上げるだけで、當(dāng)時(shí)の風(fēng)景を想像しうるに足りる(寫真1)。

大同街は東門から入る當(dāng)時(shí)からの繁華街であり、西に向かうと「鐘鼓樓」が立っている(寫真2左)。4面5層18.8m高さで、1930年創(chuàng)建當(dāng)時(shí)は徐州一の高層建築であった。1938年5月の徐州會戦時(shí)に日本軍により破壊され、すぐに再建された。防空警報(bào)器が取り付けられ、ここから空襲警報(bào)などが緊急発令された。戦前、徐州市管轄內(nèi)の日本人(朝鮮?韓國人含む)は28000名、城內(nèi)だけでも10000名になろうとしていた。日系企業(yè)は、現(xiàn)在の文化路に132社ほどが進(jìn)出し、橫浜正金銀行?華興銀行?三菱洋行などの名前が見られる(寫真2右)。老東門近くの大同街に花園飯店があり、ここは徐州一の老舗旅館であった。1938年徐州陥落後に日本軍が占拠、1948年12月1日に徐州解放後に毛沢東や朱徳が宿泊している。大同街を更に西へ行くと、中山南路になるが、その右手に中央百貨大樓があるが、この西北部に「東亜新秩序記念碑」があった。

1940年2月10日、皇紀(jì)2600年紀(jì)元節(jié)に合わせて舊豊財(cái)県に徐州神社(寫真3)が創(chuàng)建された。舊民衆(zhòng)草堂跡地にあたり、現(xiàn)在は第三人民醫(yī)院の北側(cè)で環(huán)城路から閘口東路を北に向かいカーブになった箇所であったが、神社があった痕跡は一切見られない。徐州神社と同時(shí)に「忠魂塔」も同時(shí)に建立された。ちょうど1938年8月、日本陸軍華北方面軍がこの地を通り入城した。高碑には「興亜建設(shè)之先駆」と刻まれていたが、終戦の折に神社共々切除された。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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