工藤 和直 2019年8月16日(金) 0時(shí)20分
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江蘇省蘇州市南郊外南門路94號(hào)にある蘇州金葉絲服裝有限公司は、蘇州日本人租界地跡にある會(huì)社で、その前身である蘇州第一絲廠は1924年創(chuàng)立の日本の蠶糸企業(yè)「片倉製糸紡績(jī)(現(xiàn)片倉工業(yè))」が原點(diǎn)、工場(chǎng)名を“瑞豊絲廠”と言った。
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江蘇省蘇州市南郊外南門路94號(hào)にある蘇州金葉絲服裝有限公司は、蘇州日本人租界地跡にある會(huì)社で、その前身である蘇州第一絲廠は1924年創(chuàng)立の日本の蠶糸企業(yè)「片倉製糸紡績(jī)(現(xiàn)片倉工業(yè))」が原點(diǎn)、工場(chǎng)名を“瑞豊絲廠”と言った。1938年、華中蠶糸公司蘇州支店と改め1945年中國蠶絲公司蘇州第一実験糸廠と改名、1951年に蘇州第一絲廠(第一シルク工場(chǎng))となった。現(xiàn)在は、シルク製品ショッピング販売店となっている(寫真1)。
【その他の寫真】
中國側(cè)の記録である「蘇州市第一絲廠廠誌」と日本側(cè)の「片倉製糸紡績(jī)株式會(huì)社二十年誌」によって當(dāng)時(shí)の経緯をまとめると、1922年、片倉製糸紡績(jī)(1920年に片倉組から改名)が日華蠶糸公司を組織。1924年、日本領(lǐng)事巖崎栄蔵が租界內(nèi)に工場(chǎng)建設(shè)を提唱、上海瑞豊洋行(片倉子會(huì)社)の岡野経理を日本人租界地の青陽地に派遣して、瑞豊繭行を創(chuàng)業(yè)して繭の買い付けを行う。1926年5月、租界內(nèi)に新工場(chǎng)を建設(shè)(大本亦之助技師)、本格生産に入る。日華蠶糸公司瑞豊洋行の管理の“瑞豊絲廠”と命名(工場(chǎng)長(zhǎng):網(wǎng)野一希)。設(shè)備としては、歯車部が鉄でその他は木でできた座繰車(寫真2)の240臺(tái)であり、青島絲廠?張店絲廠と合わせ、日華蠶糸公司三大製糸工場(chǎng)の一つになった。
1938年、日本政府は上海に華中蠶糸公司を成立させ、片倉紡績(jī)は瑞豊絲廠をその傘下に置き、座繰車を360臺(tái)にまで増?jiān)O(shè)、職人918名となった。同年、瑞豊絲廠は蘇州絲廠と改名した。1940年には、更に座繰車を増?jiān)O(shè)428臺(tái)となり全盛時(shí)代を迎えた。上海に設(shè)立された華中蠶糸公司は1940年代に入ると、無錫や南京ほか30カ所以上に展開、職人の數(shù)で約2萬人、座繰機(jī)で6000臺(tái)になり、その他小型工場(chǎng)まで入れると350カ所余りで1萬3千臺(tái)の座繰機(jī)を持ったが、1943年5月に解散した。
片倉工業(yè)(1943年に改名)の創(chuàng)業(yè)は1973年(明治6年)で、今年146周年となる。創(chuàng)業(yè)者の片倉市助が長(zhǎng)野県諏訪郡川岸村(現(xiàn)在の岡谷市)の自宅前で十人座繰車からスタートした。その後、松本市に進(jìn)出し1898年(明治31年)に東京千駄ヶ谷に製糸工場(chǎng)を展開、1901年に片倉組購繭所として大宮町仲町(さいたま市大宮區(qū))に移転、1916年には78000坪の広大な敷地を有する現(xiàn)在のさいたま新都心駅前に移転した(大宮製糸場(chǎng))。この場(chǎng)所は、江戸時(shí)代は何と下原刑場(chǎng)(罪人の処刑場(chǎng))であった(寫真3)。
明治國家がスタートした時(shí)期、日本の産業(yè)といえるのは生糸と米くらいであったが、繭の品種改良で生糸生産量が世界一になった(1911年)。片倉工業(yè)(當(dāng)時(shí)の片倉製糸紡績(jī):1920年片倉組から改名)の成長(zhǎng)のひとつが、生糸の生産性を大きく飛躍させた御法川直三郎が開発した「御法川式多條繰糸機(jī)」がある(寫真4)。當(dāng)時(shí)生産性を上げるには、座繰車の速度を如何に上げるかであったが、速度が上がると湯の中から出る繭糸の品質(zhì)が落ちる傾向があり、それを改善したのが、一人で20本の糸を同時(shí)に低速で繰り上げることを可能にした寫真のような多條繰糸機(jī)である。1922年大宮製糸場(chǎng)で國內(nèi)初めて実用生産に入った。その後1929年(昭和4年)には500臺(tái)となった。(寫真5)は1916年當(dāng)時(shí)の大宮製糸場(chǎng)の全景で、(寫真6)は1922年當(dāng)時(shí)の工場(chǎng)レイアウト図である。北は氷川神社一の鳥居から、南はさいたま新都心駅東口に至る広大な敷地だ。
戦後は、合成繊維に押され生糸の需要は大きく減少、大宮製糸場(chǎng)は1967年にゴルフ練習(xí)場(chǎng)を始め、その後土地開発事業(yè)に進(jìn)出した?,F(xiàn)在さいたま新都心駅前の社用地43000坪はショッピングセンター「コクーンシティ」として「まちづくり」を推進(jìn)している。コクーンとは繭(まゆ)の意味であり、“まゆづくり”から“まちづくり”に貢獻(xiàn)していると言えよう。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會(huì)社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會(huì)社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會(huì)を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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