工藤 和直 2019年8月25日(日) 13時40分
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1914年の日本軍による軍政が始まると、青島では小學(xué)校?中學(xué)校?女學(xué)校の建設(shè)がすぐに始まった。ドイツ租借時代にすでに學(xué)校の建設(shè)が進(jìn)んでいたのが幸いした。
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1897年(明治30年)、當(dāng)時漁村に過ぎなかった青島村に突然ドイツ海軍陸戦隊が上陸占領(lǐng)した。青島の歴史は約120年前に始まった。(寫真1左)は、おそらく現(xiàn)在の小魚山公園から撮影されたのであろう。草木がほとんど見當(dāng)たらない。中央に見える建物は清國衙門兵営で、奧の方に天宮后のシンボルである2本の門柱が微かに見えている。衙門兵営の右方には下青島村の民家も見える。元々の青島人はここに住んだ方々である。左奧の海浜に桟橋が見える。この延長が、今の中山路になる。
【その他の寫真】
ドイツは1898年から僅か15年で、この何もない傾斜地に、絵のように美しい緑と赤き屋根の住宅を持つ青島(小ベルリン)を造り上げた。ドイツという國の実行力には驚きを禁じ得ない。一例が青島駅である?,F(xiàn)在の駅は拡張して、東西と南の三つの改札口があるが、東改札口のみでスタートした。斜めに落ちる褐色の屋根が青島駅の特徴である(寫真2)。
1914年の日本軍による軍政が始まると、小學(xué)校?中學(xué)校?女學(xué)校の建設(shè)がすぐに始まった。ドイツ租借時代にすでに學(xué)校の建設(shè)が進(jìn)んでいたのが幸いした。青島小學(xué)校は1913年(大正2年)に西本願寺(現(xiàn)在は無棣四路小學(xué)校)で開校していたが、ドイツ降伏後すぐに既存學(xué)校の利用が始まった。青島北の李村にはもうすでに李村小學(xué)校もあったが、青島市街地における日本人小學(xué)校を2校とすることを1917年(大正6年)に決定して花咲町(現(xiàn)武定路)に新校舎の建設(shè)に著手、1917年(大正6年)に開校。翌年1918年(大正7年)4月に落成した新校舎を青島第一尋常高等小學(xué)校とした。何と1915年(大正4年)に先に開校した青島日本小學(xué)校(佐賀町)を第二尋常小學(xué)校と定めた(參考:青島物語)。
佐賀町(広西路×常州路)の第二尋常小學(xué)校校舎(生徒數(shù)230名)は、1905年(明治38年)に開校したドイツ総督府実科中學(xué)校を改修して使った。校舎の壁は全て花崗巖で覆われ、屋根裏階まで含めると4階建ての荘重な建物であった。第二尋常小學(xué)校には高等科は併設(shè)されなかったことと、借物でなく日本獨自創(chuàng)建を優(yōu)先したため第一尋常小學(xué)校と命名しなかったと思われる。(寫真3左)はドイツ総督府実科中學(xué)校が竣工したときの校舎で丘陵にあった?,F(xiàn)在は海軍関係の施設(shè)になって中に入ることは不可能であるが、玄関前の階段は昔のままである。卒業(yè)式?入學(xué)式の時の集合寫真はこの階段を使うことが多かったという。1918年(大正7年)5月には生徒數(shù)576名となった。
急増する就學(xué)児童の増加に対し、民生部は1917年(大正6年)にもう一校の新設(shè)を決定した。1918年(大正7年)4月に落成した第一尋常高等小學(xué)校は、花吹町(武定路)に校庭面積17762坪(58600m2)、校舎は近世ゴシック式煉瓦造で建物総坪數(shù)は666坪(2200m2)であった。後年、13100坪(43200m2)の大運動場が拡張され、5年後の1927年(昭和2年)に完成した。名実共に日本最大級の運動場となり、青島における各種の行事に利用されるようになった。また、合わせると10萬m2を越える日本一の小學(xué)校を誇った。この第一小學(xué)校には尋常科と共に高等科が設(shè)置された。1918年5月の記録では、尋常科児童750名、高等科生徒87名とある。
學(xué)校跡は現(xiàn)在、徳愛花園大酒店として使われている(寫真4右)。玄関から入る花崗巖の石段は當(dāng)時のままで、各教室はホテルの部屋に改裝され宿泊は可能である。正面建家は二階建てであるが、奧は三階建てとなって、かなり大規(guī)模で日本內(nèi)地で考えられない蒸気設(shè)備(冬の暖房)もあったようだ。その奧に43000m2の大グラウンド(現(xiàn)在は青島第二體育場)があった。日本內(nèi)地の小學(xué)校が木造であったのに対し、大學(xué)並みの荘厳な建築物であることが周囲を一周することで認(rèn)識できる。その後、青島における商工業(yè)発展に伴い第三?四方?滄口の小學(xué)校を増設(shè)し、全部で6校があった。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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