<レコチャ広場>臺灣の日本コンプレックス=寛容な心が必要!―中國

Record China    2013年7月16日(火) 8時10分

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10日、中國のコラムニストで「鳳凰週刊」編集委員の鄭東陽氏は「臺灣の日本コンプレックス」と題した記事を掲載した。寫真は「臺灣の原宿」西門町。

2013年7月10日、中國のコラムニストで「鳳凰週刊」編集委員の鄭東陽(ジョン?ドンヤン)氏は「臺灣の日本コンプレックス」と題した記事を掲載した。以下はその內(nèi)容。

2012年の臺灣総統(tǒng)選挙で、臺灣先住民の立法委員候補?林正二(リン?ジョンアル)氏の選挙演説會場を訪れたことがある。そこには多くの支持者が集まっていたが、私の周りにいた高齢者たちは日本語で會話をしていた。その後、壇上に林正二氏の80代の母親が登場。原稿を読みながらではあるが、息子の応援演説を日本語で行った。そこで思い出したのは、今は亡き臺灣先住民の有名な企業(yè)家、辜振甫(グー?ジェンフー)氏や王永慶(ワン?ヨンチン)氏も日本語が堪能だったことだ。

臺灣には日本の風(fēng)情が色濃く殘っている場所が數(shù)多くある。臺北市の永康街には日本建築の建物が並び、いかにも日本風(fēng)の名前である西門町は「臺灣の原宿」と呼ばれ、日本で流行しているファッションや音楽、書籍などが手に入る「哈日族(日本が大好きな人々)」の聖地になっている。

1895年から60年間にわたり臺灣は日本の統(tǒng)治下にあった。その間に生まれた臺灣人は學(xué)校で日本語を習(xí)い、多くの優(yōu)秀な學(xué)生が日本の大學(xué)に留學(xué)した。日本の統(tǒng)治は臺灣先住民に好感をもって受け入れられ、親たちは生まれた子供に日本人の名前を付けていた。

當時の日本は臺灣史上初となる徹底した人類學(xué)調(diào)査を?qū)g施。原住民族の識別と分類に心血を注いだ。その調(diào)査內(nèi)容は人口、地理、生産、生活、相互関係、風(fēng)俗習(xí)慣、宗教信仰など多岐にわたり、極めて詳細なものだった。

もちろん、日本の植民地化に反対する原住民は存在した。文化上、知識人の抵抗もあったし、初期の段階では小規(guī)模な武力衝突もあった。こうした反対派勢力はその後、民族運動と資本主義の発展を唱えた右派と、民族運動と階級闘爭を唱えた左派に分裂している。その左派の指導(dǎo)者?史明(シー?ミン)は中國に渡って中國共産黨とともに抗日戦線に參加したが、臺灣に戻ると臺灣獨立運動を主張。國民黨に追われ日本亡命中に日本語で書いた「臺灣人四百年史」の理念は、現(xiàn)在の民進黨に引き継がれている。

數(shù)年前に映畫「海角7號」が大ヒットした際に、臺灣統(tǒng)一派の作家?王豊(ワン?フォン)は「多くの文蕓青年が夢中になっているこの映畫は危険な毒草だ。日本帝國主義を賛美する意図はなくても、見る人に感傷的な懐かしさを感じさせる。だから私は絶対に見ない」と批判した。しかし、同じような歴史を持つ香港も統(tǒng)治していた英國の影響を色濃く受けている。中國と別れて60年たった臺灣の社會を知るためには、もっと寛容な心でこうした映畫を見るべきだと私は思っている。(翻訳?編集/本郷)

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