<コラム>青島の北、四方?滄口地區(qū)に日本尋常小學(xué)校が増?jiān)O(shè)された

工藤 和直    2019年9月27日(金) 0時(shí)20分

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青島ビール工場(chǎng)がある臺(tái)東工業(yè)地區(qū)が手狹になったため、青島日本守備隊(duì)は大正7年から本格的に日本企業(yè)向けに臺(tái)東鎮(zhèn)北部に土地の取得?拡張を開始した。まずは臺(tái)東鎮(zhèn)西側(cè)の高臺(tái)から土砂を青島大港北側(cè)埋め立てに利用して、45萬坪の四方工場(chǎng)造成地を作った(寫真1左)。

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青島ビール工場(chǎng)がある臺(tái)東工業(yè)地區(qū)が手狹になったため、青島日本守備隊(duì)は大正7年(1918年)から本格的に日本企業(yè)向けに臺(tái)東鎮(zhèn)北部に土地の取得?拡張を開始した。まずは臺(tái)東鎮(zhèn)西側(cè)の高臺(tái)から土砂を青島大港北側(cè)埋め立てに利用して、45萬坪の四方工場(chǎng)造成地を作った(寫真1左)。

その他の寫真

(寫真1右上)に鉄道部四方工場(chǎng)があるが、ここは日本守備隊(duì)鉄道部の主力工場(chǎng)であった。大正11年(1922年)には日本人261名、中國(guó)人1591名が勤務(wù)、鉄道車両の製造?修理ほか鉄工所としても使われ、多くの中國(guó)人が機(jī)関車の組立技術(shù)を?qū)Wんだ工場(chǎng)でもあった?,F(xiàn)在でもこの四方工場(chǎng)は、中車四方車両有限公司として中國(guó)鉄道にとって重要な地位を占める會(huì)社だ

內(nèi)外綿株式會(huì)社(內(nèi)外綿紗廠)は、大正5年(1916年)に日系紡績(jī)會(huì)社として初めて青島に進(jìn)出した會(huì)社で、工場(chǎng)敷地は11萬坪になる。昭和7年(1932年)には、日本人78名?中國(guó)人4050名の記録がある。(寫真1左)地図の下に大日本紡績(jī)株式會(huì)社(大康紗廠)がある。大正8年(1919年)に設(shè)立、工場(chǎng)敷地は9萬坪、日本人97名?中國(guó)人4000名が働いていた。

工場(chǎng)敷地の東側(cè)が住宅地となり、鉄道部四方工場(chǎng)の橫を走る四方大馬路(現(xiàn)在の杭州路)に面して大正7年(1918年)、“四方尋常小學(xué)?!堡鄭u第一尋常小學(xué)校四方分校として設(shè)立された。大正12年(1923年)には四方尋常小學(xué)校として獨(dú)立し、1941年には國(guó)民學(xué)校となった。戦後、四方工人倶楽部として改裝され、現(xiàn)在は(寫真2下)のように漢庭酒店(現(xiàn)在は閉館中)となった(杭州路41號(hào))。ホテルの後ろは駐車場(chǎng)と平安派出所になり、更に後ろは平安路第二小學(xué)校の建屋となっている。當(dāng)時(shí)の校庭は現(xiàn)在の第二小學(xué)校校舎にあたる。

四方地區(qū)とほぼ並行して、更に北の滄口(Cang Kou)鎮(zhèn)に日系紡績(jī)工場(chǎng)が多く進(jìn)出した。ひとつが當(dāng)時(shí)日本企業(yè)最大の鐘淵紡績(jī)(カネボウ)で、國(guó)光紡績(jī)(昭和18年倉(cāng)敷紡績(jī)と合併)や富士瓦斯紡績(jī)(現(xiàn)在の富士紡)などもあった。その規(guī)模は鐘紡で25萬坪、國(guó)光で14萬坪、富士坊で13萬坪と群を抜く。鐘淵紡績(jī)や豊田紡織、その他の日系紡績(jī)會(huì)社については、その痕跡を調(diào)査した結(jié)果をコラム「國(guó)綿一廠から九廠の歴史」にまとめた。

滄口地區(qū)だけでも四方と同じ程度の日本人が居たと思われ、當(dāng)然小學(xué)校が不足した。大正11年(1922年)5月に、“滄口尋常高等小學(xué)?!堡O(shè)立された(李滄區(qū)四流中路113號(hào))。現(xiàn)在は第22中學(xué)となり北樓にあたる校舎が現(xiàn)存し、玄関の門柱は昔のままと思われる(寫真3)。生徒數(shù)など詳細(xì)は不明だが、當(dāng)時(shí)の四方?滄口工業(yè)地帯に日本人が1000名ほど勤務(wù)していた事から、300名近い児童が居たと予想され、二つの小學(xué)校にそれぞれ150名ほど在校していたのではないか?,F(xiàn)在は貨物駅になっている滄口駅の東方600mに青島第三人民病院があるが、1931年設(shè)立の美國(guó)(アメリカ)基督教會(huì)醫(yī)院の跡地に建てられた大病院である。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國(guó)で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國(guó)電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國(guó)江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國(guó)関係會(huì)社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國(guó)関係會(huì)社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國(guó)や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會(huì)を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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