Record China 2019年11月25日(月) 21時20分
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中國メディア?人民網(wǎng)は22日、青年海外協(xié)力隊(duì)として中國內(nèi)モンゴル自治區(qū)の多倫県に派遣され、2年間にわたって現(xiàn)地で林業(yè)に攜わった荒川知加子さんによる所感を掲載した。
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中國メディア?人民網(wǎng)は22日、國際交流機(jī)構(gòu)(JICA)から青年海外協(xié)力隊(duì)として中國內(nèi)モンゴル自治區(qū)の多倫県に派遣され、2年間にわたって現(xiàn)地で林業(yè)に攜わった荒川知加子さんによる所感を掲載した。以下はその概要。
【その他の寫真】
■隊(duì)員応募から配屬まで
青年海外協(xié)力隊(duì)に參加するにあたって、私は応募當(dāng)時、「縁があって海外の知らない新しい環(huán)境に派遣されることになったら、自分にできることに一生懸命取り組み、経験を積もう。そしてその経験を持ち帰って、何らかの形で日本社會に還元しよう」と思っていました。
日本での選考やトレーニングを経て、內(nèi)モンゴル自治區(qū)多倫県の林業(yè)局に配屬が決まりました。出発前にも現(xiàn)地のことを調(diào)べたりしてある程度の心づもりはしていましたが、実際に多倫県の街並みを目の當(dāng)たりにすると、これは想像以上に苦労しそうだと感じました。しかし、郊外の多倫湖で美しい大自然を目にしたときには、これから始まる生活に対する期待で胸がいっぱいになりました。
■自分に一體何ができるのか
私は林業(yè)?森林保護(hù)の専門協(xié)力隊(duì)員として現(xiàn)地に派遣されました。多倫県に著いてすぐの頃、私は日常會話程度の中國語なら話せましたが、専門用語を使って中國人の同僚と會話できるレベルには達(dá)していませんでした。多倫県も日本人ボランティアを受け入れるのは初めてのことで、私に一體何ができるか、林業(yè)局は私にどんな役割を期待しているのかということについて、はっきり言って雙方ともあまり見當(dāng)がついていませんでした。
初めの頃はコミュニケーションもスムーズにいかず、私はとにかく毎日出勤して、パソコンでのデータ入力を手伝ったりしながら周りの人たちが何をしているのか観察していました。同時に、協(xié)力隊(duì)員としてここで何ができるかということを考えていました。
■自分の専門を活かした作業(yè)に著手
日本で広く普及していて、內(nèi)モンゴルの気候や土壌條件にも適した技術(shù)はないだろうか。私がまず思いついたのはコンテナ苗と生ごみコンポスト作りでした。コンテナによる苗づくりは活著率が高く耐乾性があり、運(yùn)搬にも便利です。それに、効率的に植林用の苗をつくることができれば、運(yùn)搬時における作業(yè)員の負(fù)擔(dān)を減らすことも可能です。また、コンポストを使えば生活ごみを利用して肥料を作ることができ、環(huán)境保護(hù)にもつながります。
派遣されてから半年が経って、私はようやく自分の専門性を活かした作業(yè)ができるようになりました。しかし、一方では果たして上手くいくだろうかという強(qiáng)い不安もありました。
■作業(yè)はどちらとも失敗に
育てていた苗は無事全て発芽しました。嬉しさと期待でいっぱいだったのですが、それも長く続かず、半年後には、細(xì)心の注意をはらい、わが子のように大切にしていたコンテナ苗はすべて枯れてしまいました。それに加え、生ごみコンポストも文化の違いから現(xiàn)地の人に受け入れてもらえず、失敗に終わってしまいました。
あとになって考えてみると、コンテナ苗の失敗の原因は內(nèi)モンゴルの気候を十分に考慮できていなかったことにあり、コンポストのそれは生活ごみを利用するという考え方や習(xí)慣が現(xiàn)地にないという文化の違いによるものでした。林業(yè)や森林保護(hù)において、成果が出るまでには數(shù)十年の時間がかかることもあります。苗作りにも少なくとも1年の時間が必要ですが、協(xié)力隊(duì)委員として私に與えられた任期は2年間。すでに派遣から1年が過ぎ、最後の夏も終わろうとしていた當(dāng)時、もう新たにチャンスを見つけることはできませんでした。
■後悔と無力感の中で私がやり遂げられた理由
それから先、私は活動を思い通りに進(jìn)められなかったことへの後悔や無力感に囚われながら毎日を過ごしていました。それでも任期を最後までやり遂げることができたのは、中國で出會ったたくさんの人たちの助けがあったからです。
現(xiàn)地に來て間もなく、職場で一人、晝食をとっていると、警備員のおばさんが私を彼女の部屋に招き入れてくれました。彼女とテレビを見ながらごはんを食べ、おしゃべりを楽しみました。おばさんの一番のお?dú)荬巳毪辘?a target='_blank' href='http://www.wenhuatang.com/search.php?filter=抗日ドラマ'>抗日ドラマということが分かり、初めは少し複雑でしたが、おばさんが「テレビはテレビ、あなたはあなた」と話すのを聞いてからその思いは消えていきました。私が旅行や出張に出かけるたびに、おばさんは「いつ帰ってくるの?」「おかえり!」などと聲をかけてくれ、彼女はいつしか私にとって中國のお母さんのような、心の中のオアシスのような存在になりました。
■「これを使って」と手渡されたドラム缶
コンテナ苗に著手してすぐの頃、家から自転車で40分ほどの場所にある苗畑まで毎日朝晩水やりに行っていました。それは孤獨(dú)な作業(yè)でした。しかしある日、その様子をずっと見ていた農(nóng)家の夫婦がドラム缶を手渡し、「これを使って」と言ってくれました。どうやら、小さなじょうろを持って水道と畑を何往復(fù)もしている私を見かねたようでした。彼らはその後も私にスコップの使い方を教えてくれたりしたので、それ以降、私は苗畑に向かう足取りがずいぶん軽くなったように感じました。
ほかにも、私が困っているときにいつでも手を差し伸べてくれた大家さんや、友人と郊外に遊びに行くときに何度も乗せてくれた馴染みのタクシーの運(yùn)転手さんなど、例を挙げるときりがありません。
■以前の私にとって中國は「近くて遠(yuǎn)い國」だった
協(xié)力隊(duì)に參加する前、私にとって、中國は日本と近いにも関わらず、何となく遠(yuǎn)い感じのする國でした。どちらかというとネガティブな印象が強(qiáng)かったのです。しかし、中國に來てからというもの、私の目に映るのは優(yōu)しくおおらかで、かつエネルギッシュな國の姿でした。人々はそこで、過酷な環(huán)境にあっても辛抱強(qiáng)く暮らし、同時に家族と過ごす時間や自分だけの時間も大切にしていました。
■自信を胸に、帰路へ
協(xié)力隊(duì)員として私に殘されている時間はわずかです。でも、一人の日本人として、この2年間、多倫県で現(xiàn)地の人々と一緒になって暮らし、働いた経験は、林業(yè)?森林保護(hù)の分野と同じように長いスパンで見たとき、必ず何らかの意義があったはずだと信じています。私はこの自信を胸に、日本への帰路につきたいと思います。(翻訳?編集/巖谷)
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