工藤 和直 2019年12月3日(火) 22時40分
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蘇州城內(nèi)の中央に十全街という東西に走る街路がある。東端には蘇州城東門にあたる葑門がある。人民路から十全街に入りしばらく東に歩くと烏鵲橋と言う小さい平橋があるが、この橋は100年前ではこの辺り最大のアーチ橋であった。
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蘇州城內(nèi)の中央に十全街という東西に走る街路がある。東端には蘇州城東門にあたる葑門がある。人民路から十全街に入りしばらく東に歩くと烏鵲(Wu-Que)橋と言う小さい平橋があるが、この橋は100年前ではこの辺り最大のアーチ橋であった(寫真1)。烏鵲橋は蘇州城創(chuàng)成期からある古い橋で、2500年前の呉王「夫差」の住居「烏鵲館」が近くにあったことに由來する。天の川に鵲(カササギ)が渡る橋と言う意味である。
【その他の寫真】
烏鵲橋を過ぎると右側(cè)に、蘇州南園賓館という古いホテルがある。南園賓館は1952年に蘇州市國賓館になり、50數(shù)年來の國內(nèi)外要人が宿泊したホテルである。別荘方式で宿泊建屋が敷地內(nèi)に點在している。その中に蔣介石の養(yǎng)子(次男:蔣緯國)の居寓であった建物があり、その3階は蔣介石の別宅であった(寫真2)。
蔣介石は國民黨の主席であり軍人でもあるが、彼が臺灣に去るまで、こよなく蘇州を愛した一人でもある。蔣介石には4人の夫人がいた。ただ重婚ではないかと疑いたくなるほど奇妙と言うか巧妙に妻の実家の財産が目的の政略結(jié)婚をしたと言えよう。
最初の妻は蔣介石の故郷奉化県の毛福梅(1921年日本軍の空爆で死亡)であった。長男の経國は福梅の子になる。第二夫人(妾か?)が姚治誠で、養(yǎng)子である緯國を養(yǎng)育し、この別荘で共に生活をしていた。第三夫人が蘇州の金持ちの娘、陳潔如である。第四夫人があの宋家三人娘の三女、宋美齢である。実家の浙江財閥のお金とアメリカ育ちの雄弁な英語力で、彼の名前を世界に示させた賢夫人である。美齢が無くば、蔣介石は唯の軍人で終わったであろう。
この蔣緯國の居寓の地下が、何と共産黨の林彪の地下アジトになったのだ。國民黨が去った後、共産黨副主席の林彪の寓居になった。林彪は抗日戦爭時に肺に被弾し、大連や蘇州で治療する事が多く、この別宅を保養(yǎng)所とした。
毛沢東の國家主席撤廃案に対して、林彪がクーデターを蘇州で計畫した。林彪の息子で空軍を指揮する林立果が毛沢東を倒し、新政権を樹立する事を計畫した「571(ウチイ)工程紀(jì)要」を?qū)g施に移したが、事前に情報が漏れ妻の葉群とソ連に亡命する途中、モンゴル上空で墜落しパイロット他9名全員が死亡したクーデター未遂事件だ(寫真3)。
林彪事件はおそらく近代中國史上最大の謎である。毛沢東の“最も親密な戦友”として文化革命推進に扮裝し、次期後継者を約束された林彪が、ともあろうにも毛沢東暗殺に失敗、1971年9月13日モンゴル草原で墜落死した。蘇州城內(nèi)のホテルであるが、國民黨と共産黨、意外なところで接點があるものだ(寫真4)。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演會を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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工藤 和直
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