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中國に現(xiàn)存する最も古い石橋は、河北省石家荘市趙州鎮(zhèn)にある趙州橋(安済橋)で橋長51mアーチ式である。
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中國に現(xiàn)存する最も古い石橋は、河北省石家荘市趙州鎮(zhèn)にある趙州橋(安済橋)で橋長51mアーチ式である。隋大業(yè)年間(西暦605~618年)と言えば日本の飛鳥時代であり、小野妹子が遣隋使として朝貢した頃である。もう1400年になろうとしている(寫真1)。
【その他の寫真】
橋の長さで言えば、宋慶暦7年(西暦1047年)木造として創(chuàng)建された呉江市「垂虹橋」は、元泰定2年(西暦1325年)に全長450mに渡る淅江省最長の石橋(99孔)として再建された。殘念ながら、現(xiàn)在は3つに分?jǐn)啶?、最長でも40~50mとなっている(寫真2)。ここは月の名所でもあり「十里波光連寶帯、一灣月影映垂虹」と詠われている。詩中の寶帯は蘇州呉中の寶帯橋のことである。
蘇州市呉中區(qū)に317mの寶帯橋がある。地下鉄2號線寶帯橋南駅から徒歩15分程度だ。又の名を「長橋」とも言う(寫真3)?,F(xiàn)存では中國內(nèi)で最長であり、蘇州城南東角にある滅渡橋から真南に3km下ったところにある。この橋は道と道をつなぐ2次空間の接合でなく、船を縄で引く労働者のために作った橋であるのが特長だ。杭州から嘉興?呉江と北上した大運(yùn)河は蘇州城東南部3kmの所で、右折すれば上海、左折すれば大運(yùn)河で蘇州城外寒山寺を通り無錫へ、直進(jìn)すれば3kmで滅渡橋から蘇州城內(nèi)に入る事ができる交通の要所にある。長橋と言われるように317m長さで53孔のアーチ式であり、上部は平坦である。
創(chuàng)建は唐元和12年(西暦817年)、蘇州刺史(知事)の王仲舒が“寶の帯”を売って作ったといわれる。現(xiàn)代の橋は明正統(tǒng)7年(西暦1442年)に再建されたもので、中國に現(xiàn)存する「一番長い石橋」である。杭州から來た船をただひたすらに北方向に縄で引っ張る労働者の姿を、かの日本から來た遣唐使一行も見たであろう。日中戦爭時、日本陸軍の空爆で南六孔が破壊されたと記録がある。この寶帯橋の西、大運(yùn)河に沿って行くと西塘河があるが、そこに五龍橋(五孔アーチ式)がある。南宋淳煕年間(西暦1174~1189年)創(chuàng)建であり、宋時代の趣がある石橋である。
ちなみに、蘇州內(nèi)で最も短い橋は、世界遺産「網(wǎng)師園」內(nèi)の引靜橋(三歩橋)である。網(wǎng)師園は十全街帯城橋から少し南に入った狹い路地にある(新區(qū)から511番バス網(wǎng)師園北下車)。南宋時代史正志侍郎の「萬巻堂」に清時代乾隆年間に宋宗元が庭園を造り、自分を漁師になぞらえて“漁隠”の意味で「網(wǎng)師園」と名付けた。1979年、アメリカのニューヨークにある「メトロポリタン蕓術(shù)博物館」にある庭園は網(wǎng)師園をモデルにして作られ、その名を海外に馳せた経緯がある。敷地は5500m2と典型的な江南式で非常に小ぶりな庭園であるが、「留園」とともに非常に美しい。この庭園は池を中心に作られ、鏡の如く広がる池に寫る月は手に取るが如くで、中秋の夜に一度は訪れたい蘇州庭園の一つである。この池の南東部端に2mに満たない小さな橋、これが「三歩橋」である(寫真4)。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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