なぜ日本で輸入産業(yè)のアニメ?漫畫が発展したのか―中國メディア

Record China    2013年11月1日(金) 13時33分

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30日、中國でテレビが普及し始めた70年代末頃、大量の日本のテレビアニメが中國に入ってきた。この時代、日本のアニメ?漫畫作品が大量に中國市場に流れ込み、中國人は日本アニメ?漫畫に夢中になった。寫真は中國の映畫館に貼られた「ATOM」のポスター。

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2013年10月30日、中國でテレビが普及し始めた70年代末頃、大量の日本のテレビアニメが中國に入ってきた。例えば、「花の子ルンルン」や「聖闘士星矢」、「一休さん」、「ドラえもん」などだ。この時代、日本のアニメ?漫畫作品が大量に中國市場に流れ込み、中國人は日本アニメ?漫畫に夢中になった。當(dāng)然、このような作品は當(dāng)時の學(xué)生たちにも影響を與えた。日本のアニメ?漫畫は獨(dú)特な魅力と人を感動させる力を持っていたため、當(dāng)時世界でも「anime」という新しい英単語までが作られたほどだ。日本のアニメ?漫畫産業(yè)は、かくも発展し、影響力を持っている。しかし、アニメ産業(yè)はもともと米國で生まれたもので、アジアの國にとって、アニメ産業(yè)は輸入産業(yè)である。日本のアニメ産業(yè)はいかにしてこのように大きく発展し、他のアジア諸國を大きく引き離してトップに君臨しているのか、不思議に感じている人も多い。光明日報(bào)が伝えた。

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■昆蟲が大好きだった「昆蟲博士」こと手塚治蟲の漫畫改革

日本のアニメ創(chuàng)世記である1918年に、日本初のアニメ作家である北山清太郎によるアニメ映畫「桃太郎」の製作が始まった。出來上がった映畫は當(dāng)時大ヒットとなり、多くの観客たちが映畫館に詰め掛けた。その中に、後に「漫畫の神様」と呼ばれることになる手塚治蟲の姿もあった。手塚治蟲は小さい頃から漫畫を描くことや昆蟲が好きだった。手塚治蟲の名前に「蟲」という文字が加えられているのはこのためだ。

50年代、手塚治蟲は漫畫の連載をスタートさせる。この時期に描いた漫畫は主に子供向けの4コマ漫畫と伝統(tǒng)的な長編漫畫で、子供たちに大人気だった。手塚治蟲の漫畫はいつも瞬く間に売り切れ、赤本ブームを巻き起こした。しかし、まさしく赤本ブームを巻き起こした頃の手塚治蟲は、子供向け4コマ漫畫家のトップという立ち位置にはまったく満足しておらず、その後日本の漫畫の新しい時代を築くための二つの偉大な改革を成し遂げた。

一つ目は、映畫の手法であるコマ割りの概念を平面の漫畫の中に取り入れたこと。二つ目は、漫畫のテーマや內(nèi)容面において、結(jié)末にオチを持ってきて、読者を笑わせる起承転結(jié)タイプから、もっと多元的な內(nèi)容を持つ漫畫に変革したこと。以前の漫畫は常に物語の最後にオチやギャグを用いて読者を笑わせるスタイルだった?,F(xiàn)在見られる多くの4コマ漫畫は今でもこのような物語の構(gòu)成をとっている。しかし、手塚治蟲は、漫畫は物語を語るものであり、一口に物語といっても、幅広く豊かな內(nèi)容を持ち、人生の悲喜こもごもが描かれるべきで、常に一様にハッピーエンディングである必要はないと考えた。

これらの改革を経て描かれた新たな漫畫は、おのずと以前の漫畫の様相とは大きく異なった。以前より増したインパクトやテンポ、豊かな感情などが、人々、特に若い世代を魅了し、手塚治蟲の漫畫の人気は瞬く間に日本を席巻した。

■漫畫がもたらした弊害によって、漫畫追放運(yùn)動が起こる

しかし、このような少年たちを魅了した漫畫は同時に弊害をもたらし、青少年の學(xué)習(xí)に悪影響を與えるようになった。1956年頃、日本の文化人を中心とした団體が漫畫の追放運(yùn)動を開始した。多くの親たちは學(xué)生が漫畫ばかり読むことで、文學(xué)作品を読まなくなり、學(xué)習(xí)の邪魔になると考えた。

もちろん、これには原因がある。若い読者は青春のまっただ中にあり、経験も少なく、何かに夢中になりやすい。當(dāng)時の児童文學(xué)作品のテンポは緩慢で、青少年たちに刺激を與えることはできなかった。しかし、漫畫はまさしく刺激的という特徴を持ち、感覚的にも容易に受け入れられたことで、青少年たちは漫畫を読むことをより好み、文學(xué)作品を読まなくなった。

手塚治蟲は漫畫家として初めてこの問題に気付き、漫畫に本質(zhì)的に含まれる文學(xué)性に手を加えた。手塚治蟲は、「今後、必ず児童文學(xué)と肩を並べるような文學(xué)的な內(nèi)容を備えた児童漫畫が出現(xiàn)するはずだ」と語った。漫畫家たちの奮闘もあって、手塚治蟲を中心とした物語性に富んだ漫畫は子供の文化として最終的に日本社會から受け入れられた。そしてさらに20年がたち、漫畫は子供たちだけでなく、大人も好む一種の文化となった。

日本の漫畫が新しい時代に向けて踏み出したことで、社會への影響力が増し、國民もまた手塚治蟲が作り出した新しい漫畫言語を受け入れることになった。

■徐々に成熟してきた日本のアニメ?漫畫

70年代、テレビが日本で大量に普及したことで、日本の映畫市場は大きな打撃を受けた。映畫大手製作會社の東映はディズニー式のアニメ映畫製作から脫卻し、いち早くテレビアニメ市場に打ち出していく。この時期、手塚治蟲が設(shè)立した蟲プロダクションが倒産(1973年)したが、これが多くのアニメ製作者たちにそれぞれ獨(dú)自のアニメ製作會社を設(shè)立させることになった。そして、多くの青年アニメ製作者がアニメ監(jiān)督になるために奮闘していった。

これによって、アニメ市場には、幅広く、多種多様なジャンルの作品が登場することになり、日本アニメ界に3つの黃金期を迎えた。最初の黃金期は「宇宙戦艦ヤマト」が築いたもので、同アニメは1974年から1982年まで放送された。これ以降、多くのSFアニメや漫畫が相次いで誕生した。しかも、同アニメは複雑なストーリーや體系的な世界観と深い文學(xué)性を備えており、日本のアニメ?漫畫界に新境地を切り開いた。第二の黃金期は、1982年の「超時空要塞マクロス」で、1987年まで放送された。この頃、人々は視覚的効果を追求し、楽しむ時代であったため、アニメは視覚的な技術(shù)力の向上が求められた。日本アニメの発展途上の時期はこの頃(1987年頃)に終わりを告げ、ストーリーや內(nèi)容、アニメの技術(shù)面などすべてにおいて非常に高い水準(zhǔn)に達(dá)した。第3の黃金期は1987年から90年代初めだ。アニメはこの時期、成熟の段階に入っており、いくつかの優(yōu)秀な作品が生まれた。この頃の日本のアニメ?漫畫はすでに整った市場を形成すると同時に、多くの観客を持っており、非常に成熟していた。

■現(xiàn)狀に嘆く日本のアニメ界

日本のアニメ映畫と漫畫は各世代のアーティストたちの業(yè)績と継承を経た上で、今日のような世界的に有數(shù)な業(yè)界にまで発展した。この業(yè)界で働く人たちはますます多くなり、多くのアニメ?漫畫ファンの若者たちは大きな志を抱いて、この業(yè)界で成功しようと業(yè)界入りしてくる。その結(jié)果、良い面も、悪い面ももたらされたが、悪い面としては、アニメ?漫畫市場に出回る作品が玉石混合となってしまったことが挙げられる。

近年、インターネットが極めて発達(dá)したため、紙に印刷された漫畫は大きな打撃を受けた。読者は常にパソコンや攜帯などで電子ブックを読み、紙を用いた本や雑誌の売り上げは減少している。さらに、金融危機(jī)に加えて、多くの出版社が売り上げを追求するため、より多くの場面で低俗趣味に迎合している。これらの低俗で娯楽性の強(qiáng)い漫畫を出版することによって、現(xiàn)在ほとんどの日本の漫畫?アニメが70、80年代に持っていた文學(xué)性や思想性を失ってしまい、多くの漫畫が単純な娯楽作品になってしまっている。

アニメ?漫畫は大衆(zhòng)が幅広く受け入れられる、迅速に人に伝える文化製品であり、だからこそアニメ?漫畫は正面から文化を伝えるという重大な責(zé)任を負(fù)わなければいけない。もし、単純な低俗趣味に迎合した娯楽作品に成り下がってしまったら、それはすでに健康的な読み物ではなくなり、生命力も失われてしまうだろう。(提供/人民網(wǎng)日本語版?翻訳/MZ?編集/武藤)

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