〈一帯一路実踐談12〉2002年法隆寺金堂壁畫の源流壁畫を発見

小島康譽    2020年4月11日(土) 16時20分

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2013年9月、習(xí)近平國家主席はカザフスタンで「シルクロード経済帯」構(gòu)想を、10月にはインドネシアで「21世紀(jì)海上シルクロード」構(gòu)想を提唱した。寫真は日中隊員15人が大小の砂丘を越えて、西へ西へ。

2013年9月、習(xí)近平國家主席はカザフスタンで「シルクロード経済帯」構(gòu)想を、10月にはインドネシアで「21世紀(jì)海上シルクロード」構(gòu)想を提唱した。合わせて「一帯一路」である?!敢粠∫宦贰工辖U済の道、政治の道であると同時に文化の道、國際協(xié)力の道でもある。

筆者は「シルクロード経済帯」の要衝である新疆で各種の國際協(xié)力を?qū)g踐してきた。後日「世界遺産」となったキジル千仏洞修復(fù)保存協(xié)力や「中國の國寶中の國寶」を発掘した日中共同ニヤ遺跡學(xué)術(shù)調(diào)査はすでに紹介した。

2002年10月25日、筆者ら8人がダンダンウイリク遺跡を目指して日本を出発。きっかけは仏縁ともいえる。ニヤ調(diào)査の日本側(cè)主催は筆者が佛教大學(xué)に設(shè)立したニヤ遺跡學(xué)術(shù)研究機(jī)構(gòu)。その顧問の一人は奈良薬師寺の安田映胤執(zhí)事長(當(dāng)時)。その夫人である順恵女史は奈良女子大學(xué)博士課程へ社會人入學(xué)し、玄奘三蔵のインドからの帰路を研究されていた?!甘欠扦趣庑肖郡ぁ工纫Δ堡瞥霭kした。ニヤ遺跡調(diào)査の新疆側(cè)との覚書にダンダンウイリクも含まれていたので、許可は比較的容易であった。

(千數(shù)百年の時を経て、大沙漠に靜かに殘る遺跡)

ダンダンウイリクとは舌を噛みそうな名である?!付巍└谷猡扦工??」と言われたことも。1896年ヘディンが発見し、1900年スタインが大量の壁畫や「桑種西漸伝説」板絵などを発掘し、一躍有名になった。スタインのニヤ遺跡発掘や大谷探検隊のきっかけともなり、「シルクロード學(xué)」の原點ともいえる重要な遺跡である。タクラマカン沙漠南縁の小都市ユテン北北西に殘存する8世紀(jì)頃滅びた古代都市で、東西約2km?南北約10km(周辺ふくむ)の範(fàn)囲に寺院や住居などが殘っている。世界中の探検家や考古學(xué)者の興味をひいてきたが、大沙漠の奧深くに位置し、未開放地域であるため本格的調(diào)査は行われていなかった。

タクラマカン沙漠は日本の約9割に相當(dāng)する面積。広大な沙漠での調(diào)査は困難を極める。ユテンからケリヤ河沿いに約120km北上、小オアシスで裝備等をラクダに積み替え西へ。日中雙方隊員15名がラクダ41頭で水量ゆたかなケリヤ河を渡るのは壯観であった。揺られ揺られて3日目の午後、遺跡東端に到達(dá)。ラクダ歩行距離約50km、日本人初の公式到達(dá)。なぜ公式と記したか?新疆文物局の許可無しで侵入した人たちがいるからである。

(露出した壁畫を発見し、保護(hù)のため緊急発掘)

到達(dá)の喜びにひたる間もなく、分布調(diào)査。中國側(cè)隊員が露出した壁畫を発見。風(fēng)のいたずらか仏様のお顔が地表に。盛春壽新疆文物局長と張玉忠新疆文物考古研究所副所長の指揮で保護(hù)のため緊急発掘。次々と壁畫。千數(shù)百年ぶりにお出ましになった尊顔を拝し読経。焼損した法隆寺金堂「鉄線描」壁畫の源流の実物資料といえる「屈鉄線」壁畫であった。

■筆者プロフィール:小島康譽


浄土宗僧侶?佛教大學(xué)內(nèi)ニヤ遺跡學(xué)術(shù)研究機(jī)構(gòu)代表?新疆ウイグル自治區(qū)政府文化顧問。1982年から新疆を150回以上訪問し、多民族諸氏と各種國際協(xié)力を?qū)g施中の日中理解実踐家。
ブログ「國獻(xiàn)男子ほんわか日記」
<新疆は良いところ>小島康譽 挨拶―<新疆是個好地方>
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