小島康譽(yù) 2020年4月18日(土) 16時(shí)0分
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2002年には「日中共同ダンダンウイリク遺跡學(xué)術(shù)調(diào)査」を開始し、焼損した法隆寺金堂「鉄線描」壁畫の源流の実物資料といえる「屈鉄線」壁畫を発掘した。寫真は発掘現(xiàn)場(chǎng)、右奧が張玉忠新疆文物考古研究所副所長。
「一帯一路」の重要地帯である新疆ウイグル自治區(qū)で実踐してきた世界的文化遺産保護(hù)研究などを連載中。2002年には「日中共同ダンダンウイリク遺跡學(xué)術(shù)調(diào)査」を開始し、焼損した法隆寺金堂「鉄線描」壁畫の源流の実物資料といえる「屈鉄線」壁畫を発掘した。
これまた不思議な縁であった。前年に調(diào)査を予定、実施直前にアフガニスタンで戦闘が始まり、隣接する新疆政府の勧告により延期した経緯があり、もし2001年に実施していたら、おそらくこの仏様にはお會(huì)いできなかったであろう。千數(shù)百年の時(shí)をへて「般若心経」を唱え、一同は感涙にむせんだ。
この時(shí)は本格発掘の準(zhǔn)備をしておらず、翌月、新疆側(cè)が急ぎ態(tài)勢(shì)を整え、約2週間にわたって発掘した。大沙漠奧深くで発掘し、ラクダと車で、大型の壁畫を破損させぬよう約1400km離れたウルムチの研究所まで運(yùn)ぶのは一苦労である。その中の如來が描かれた壁畫を目にした我々は、その眼差しと微笑みを拝し、思わず「西域のモナリザ」と叫んだ。
法隆寺金堂壁畫が焼損したのは1949年1月26日。以來この日は「文化財(cái)防火デー」とされ、消防訓(xùn)練や啓蒙活動(dòng)が各地で行われている。その畫法は「鉄線描」と言われ、中國から伝わったとされてきたが、古の戦亂などにより中國でも殘っていなかった。我々がダンダンウイリク遺跡で発掘した壁畫は法隆寺壁畫と同じ手法で描かれ、唐代の『歴代名畫記』に「屈鉄盤絲の如し」(屈鉄線)と記されている壁畫であった。
2003年、新疆文物考古研究所で壁畫の予備研究を開始。井上正前佛教大學(xué)教授は「內(nèi)容は豊富、西域壁畫の最高傑作のひとつ、文獻(xiàn)にある『用筆緊勁にして屈鉄盤絲の如し』そのものを見ているようだ」と最高水準(zhǔn)の評(píng)価を與えた。この時(shí)は中國で「サーズ」が流行中で、関空から北京への乗客は筆者ら4人の日本人研究者と帰國する中國人3人だけだった。北京空港は閑散としていた。
筆者は保護(hù)研究協(xié)議書を新疆文物局の艾尓肯?米吉提副局長と交わし、國家文物局より正式許可を取得した。2004年には日中両國の保護(hù)処理専門家を交えて協(xié)議し、保護(hù)研究原案を策定、國家文物局専門家委員會(huì)で承認(rèn)され、準(zhǔn)備を開始した。
NHK「新シルクロード」取材班が希望したダンダンウイリク遺跡調(diào)査撮影交渉は難航し數(shù)回に及んだが、筆者が「今日は私の誕生日だから」と各方面に譲歩を求め調(diào)印。10月第二次調(diào)査をNHKとCCTVが同行取材した。
■筆者プロフィール:小島康譽(yù)
浄土宗僧侶?佛教大學(xué)內(nèi)ニヤ遺跡學(xué)術(shù)研究機(jī)構(gòu)代表?新疆ウイグル自治區(qū)政府文化顧問。1982年から新疆を150回以上訪問し、多民族諸氏と各種國際協(xié)力を?qū)g施中の日中理解実踐家。 ブログ「國獻(xiàn)男子ほんわか日記」 <新疆は良いところ>小島康譽(yù) 挨拶―<新疆是個(gè)好地方> 書籍はこちら(amazon) 小島康譽(yù)氏コラム
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