<コラム>蘇州城から見える滅渡橋と呉門橋、京杭大運(yùn)河に接する寶帯橋と五龍橋

工藤 和直    2020年6月11日(木) 23時(shí)40分

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蘇州城から見える滅渡橋と呉門橋、京杭大運(yùn)河に接する寶帯橋と五龍橋。

蘇州城外で必見の価値があるのは、まずは「滅渡橋」だ(寫真1左上)。蘇州城東南角にある樓閣(2000年代建設(shè))の対面にある橋で、花崗巖からなる?yún)g孔アーチ式である。その南8kmに寶帯橋がある。更にもう一つ挙げるとすると盤門南の「呉門橋」である。宋代西暦1084年創(chuàng)建の三孔アーチ式であったが、現(xiàn)在は一孔で蘇州最大である(寫真1右上)。盤門路に入るにはこの橋を通るしかない。かの文豪、谷崎潤(rùn)一郎も蘇州訪問時(shí)は盤門南の日本人租界地で宿をとり、翌日ロバで城內(nèi)に入ったと日記にある。

よく萬年橋(姑胥橋の南)について問われる事が多いが、今の萬年橋は2010年頃に三孔アーチ式に建て替えられた橋であり、清代乾隆帝時(shí)代西暦1740年に創(chuàng)建、當(dāng)時(shí)の姑蘇繁栄図から見ると三孔折橋だったが、現(xiàn)在はアーチ式に変更された。目的は観光船を通すためで、歴史の歪曲の例である。姑胥橋北に2500年前の土塁の城壁跡があり、黒く固い土塁に品字型の煉瓦など歴史を感じさせる土塁溝が存在したが、2013年に観光受けする石の城壁になった。歴史とは過去の遺物を如何に史実のままに殘すかであり、観光目的に改造するものでない。

滅渡橋から真南に3km下ったところにあるのが「寶帯橋」である(寫真1左下)。この橋の元々の目的は道と道をつなぐ2次空間の接合でなく、船を縄で引く労働のために作った橋であるのが特長(zhǎng)だ。杭州から嘉興?呉江と北上した京杭大運(yùn)河は蘇州城東南部3kmの所で、右折すれば上海、左折すれば蘇州城外寒山寺を通り無錫へ、直進(jìn)すれば3kmで滅渡橋から蘇州城內(nèi)に入る事ができる交通の要所にある。別名長(zhǎng)橋と言われるように317m長(zhǎng)さで53孔のアーチ式であるが、上部は平坦である。創(chuàng)建は唐代(西暦816年)蘇州刺史の王仲舒が寶の帯を売って作ったといわれる。

現(xiàn)在の橋は明代(西暦1442年)に再建されたものである。中國(guó)に現(xiàn)存する一番長(zhǎng)い古橋である。杭州から來た船をただひたすら北に縄で引っ張る労働者の姿をかの日本の遣唐使一行も見たであろう?,F(xiàn)代では、日中戦爭(zhēng)中に日本陸軍の空爆で南6孔が破壊された。この寶帯橋の大運(yùn)河に沿って西方向に行くと西塘河が北上するが、そこにあるのが「五龍橋」(5孔アーチ式)であり、宋時(shí)代の趣がある(寫真1右下)。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國(guó)で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國(guó)電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國(guó)江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國(guó)関係會(huì)社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國(guó)関係會(huì)社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國(guó)や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會(huì)を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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