Record China 2014年1月6日(月) 14時(shí)23分
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2日、新年連続インタビュー「アジア映畫の今」がスタート。第14回東京フィルメックスで來日した監(jiān)督3人に聞く。第1回はシンガポールのアンソニー?チェン監(jiān)督。作品寫真提供:東京フィルメックス事務(wù)局
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2014年1月2日、アジアの映畫人は今、何を模索し、どこを目指しているのか。新年連続インタビュー「アジア映畫の今」。第14回東京フィルメックスで來日した監(jiān)督3人に聞く。第1回はシンガポールのアンソニー?チェン(陳哲藝)監(jiān)督。
【その他の寫真】
1984年、シンガポール生まれ。長編デビュー作「ILO ILO(英題)」が昨年、カンヌ國際映畫祭でカメラ?ドール(最優(yōu)秀新人監(jiān)督賞)を獲得。臺(tái)灣金馬奨(臺(tái)灣アカデミー賞)の最優(yōu)秀作品賞など4部門を獲得し、一躍注目を集めた。現(xiàn)在はシンガポールと英國を拠點(diǎn)に活動(dòng)している。
「ILO ILO(英題)」の舞臺(tái)は1990年代後半、アジア経済危機(jī)下のシンガポール。中流家庭に住み込みで働き始めたフィリピン人メイドと家族の物語だ。両親の不仲、父の失職などを背景に、メイドと少年の交流、家族の変化を描く。チェン監(jiān)督は「小さなことに人間性が宿り、人に語りかける。社會(huì)の人間模様、人々の生きざまを描いていきたい」と語った。
▼主なやり取りは次の通り。
──最初の長編作品でメイドをテーマにした理由は。
私は子供時(shí)代、メイドがそばにいた期間が長かった。4歳から12歳まで。成長過程で重要な時(shí)期、長い時(shí)間を一緒に過ごした。シンガポールでメイドを雇うことは、別にぜいたくではなく、ごく普通のこと。全家庭の半分は雇っていると思う。
──舞臺(tái)設(shè)定は97?98年。物語はどう作ったのか。時(shí)代背景を含めて教えてほしい。
私は80年代に生まれ、90年代は子供だった。「あの時(shí)代を一番良く知っている」という自覚がある。今のシンガポールは大きく変わった。理解できないと思うほどだ。97、98年のことは忘れられない。アジア金融危機(jī)が起き、抑圧された、暗い時(shí)代だった。米國企業(yè)に勤めていた父も失業(yè)し、その後より良い仕事には就けなかった。私の人格形成に大きな衝撃を與えた時(shí)期だった。
──シンガポールのどこが最も大きく変わったと思うか。
(高級(jí)ホテル?レジャー施設(shè)の)マリーナベイサンズが街の中心に完成した。人気のスポットで、日本人はみな泊まりたがるでしょう?(笑)。なぜ街の真ん中にカジノを作るのか、私にはまったく理解できない。シンガポールの役人は分かっているだろうか。普通カジノは郊外に作るものだ。あれにより街の外観、人々の価値観も変わった。資本主義的傾向が強(qiáng)まり、昔よりずっと金満體質(zhì)になっている。
──メイドと家族の物語は、監(jiān)督の中にずっと存在し、描きたいと思ってきたのか。
子供時(shí)代は無垢(むく)でナイーブだ。楽しかったこと、食べ物がおいしかったこと、遊んだことなどは記憶に殘る。だが、振り返って気付くこともある。當(dāng)時(shí)、世の中の人間関係は単純だと思っていたが、大人の世界は複雑だ。一見するのと大分違うと気付いていく。
私の母はとても優(yōu)しく、心溫かい人。映畫で描いたより(メイドとの関係は)ずっと良かった。ただ、一度だけ「はっ」と思ったことがあった。私が3年の英國留學(xué)から帰った時(shí)、私のおばが「食事に來ないか」と誘ってくれた。母は聞くなり「私の子供よ。まずご飯を食べるのはうちでしょう」とくぎを刺した。恐らくすべての女性には、子を守ろうとする衝動(dòng)や直感があり、自分のものを守り、區(qū)別する傾向があるのではないか。
──映畫の道に入ろうと思ったきっかけは。
理由は分からない。15歳の時(shí)、すでに「映畫監(jiān)督になりたい」と思っていた。子供のころはジャッキー?チェン(成龍)のアクション、香港コメディー、警察もの、ヤクザ映畫、ホラーなどを見ていた。ただ、私は中でも週末の午後、テレビで放映される映畫を見るのが好きだった。それは田舎が舞臺(tái)の中國映畫で、いつも同じ女優(yōu)が出ていた。後に女優(yōu)はコン?リー(鞏俐)で、初期のチャン?イーモウ(張蕓謀)監(jiān)督の作品と知った。
──成長するにつれ、どんな作品が好きになり、影響を受けたか。
15歳ごろからイタリア、フランス、日本、臺(tái)灣映畫などを見るようになった。映畫に対する固定観念を変えてくれた。自己形成にも大きく影響したと思う。
15歳の時(shí)、今思えば世間知らずなことをした。インターネットでUSC(南カリフォルニア大學(xué))、UCLA(カリフォルニア大學(xué)ロサンゼルス校)、NYU(ニューヨーク大學(xué))など、世界の有名な映畫學(xué)校に手紙を書き、どうすれば入學(xué)できるか調(diào)べた。ところが學(xué)費(fèi)が20萬ドル(約2000萬円)もかかる。法學(xué)や醫(yī)學(xué)を勉強(qiáng)するより高い。シンガポールの中流家庭にとっては大金だった。そこで17歳の時(shí)、シンガポールで唯一映畫を教える學(xué)校、義安理工學(xué)院の映畫コースに入學(xué)した。
──監(jiān)督の作品は人物、狀況描寫がとても細(xì)かい。自身はどんな子供だったか。
いたずら好きではなく、どちらかといえばいじめられっ子。観察力はあったかもしれない。物分かりが早い子だった。今もそうだが、細(xì)かいことに目が行く。部屋に入ると、どう人が動(dòng)き、どういう身振りで、どう関係しあっているか、一瞬で把握しようとするくせがある。
細(xì)部に注目するのは、私の映畫作りの特徴かもしれない。戦爭(zhēng)、殺人、暴行など大きな事件を扱う監(jiān)督もいる。しかし私は、小さなことにこそ人間性が宿り、人に語りかけるものがあると思う。
──シンガポールの若手映像作家の製作環(huán)境について教えてほしい。市場(chǎng)は小さいが、どんな夢(mèng)を描いているのか。
(大學(xué)時(shí)代の)同級(jí)生は、みな映畫の道をあきらめたと思う。映畫製作は大変苦しい職業(yè)だ。貧しさに耐えなければならず、痛みも伴う。映像業(yè)界の友人はCMを撮ったりしている。お金を稼げるからだろう。映像の世界にいても、お金に関心がある人が多い。私は違う。映畫作りはお金より、心にかかわる仕事だと思う。
──次回作の構(gòu)想は。
まだ決まっていない。こちらが教えてほしいぐらい(笑)。唯一分かっているのは、社會(huì)の人間模様、人々の生きざまをテーマにすること。それ以外どうなるか分からない??栅槟_本が降ってきて、それを撮るだけなら楽だろうが、人生そうはいかない。
楽をして作る映畫にいいものはない。いいものにするため、戦い続け、痛みに耐えなければならない。苦しむことを覚悟している。映畫を作り続けることは、痛みを好きになることではないか(笑)。
──臺(tái)灣金馬奨を受賞後、アン?リー(李安)監(jiān)督、ホウ?シャオシェン(侯孝賢)監(jiān)督と話し、何が一番印象的だったか。
ホウ監(jiān)督は「君の製作姿勢(shì)なら大丈夫。映畫作りを続けられるよ」と言ってくれた?!赣钞嫟藢潳工胱藙?shì)の問題だ」と。アン監(jiān)督は心配していた?!袱长螭胜烁撙い趣长恧楗攻咯`トするのでは、次が大変だよ」と気遣ってくれた?!袱い恧い恧世щyが待ち受けているだろう。周囲の期待も大きい。僕が君の年齢のころは、こんなに賢くなかった」と。本當(dāng)は彼らにもっと頻繁に會(huì)い、アドバイスが欲しい。切迫した気持ちだ。
──シンガポールを今後も拠點(diǎn)にし、描くつもりか。
私は今シンガポールとの間を行き來しつつ、妻とロンドンで暮らしている。シンガポールにとどまることだけはしたくない。人口500萬人のとても小さな場(chǎng)所にいると、自分が成長しない気がする。
ロンドンにはあらゆる才能があふれている。演劇、ダンス、オペラ、絵畫。さまざまな分野の才能がある人が活躍している。自分がとてもちっぽけで「他の人にはかなわない」という気持ちにさせてくれる。それは自分にとってとても良いことなんだ。謙虛になることが自分を成長させ、世界で戦い続ける動(dòng)機(jī)になる。シンガポールではほめられすぎる。私は逆に今、常に挑戦狀を突きつけられたいんだ。
シンガポールに生まれ育ち、一番良かったのはバイリンガルであること。英語を第1言語で學(xué)んだことは大きい。私はアジア的なセンスを持ちつつ、英國でも教育を受けた。東洋と西洋の両方を吸収している。シンガポールは多文化、多言語國家。人々は適応能力が高い。世界中どこへ行ってもなじめる。私の映畫もそうだと思う。(文?寫真/遠(yuǎn)海安)
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