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李香蘭が歩いた街、蘇州監(jiān)獄跡を訪ねた。
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蘇州城中央を東西に走る干將路の東端に、相門城郭樓ができた(寫真1)。相門は2500年前の蘇州城創(chuàng)建時からあった城門である。その城門から西の倉街に至る広い敷地が蘇州監(jiān)獄(刑務所)跡で、數(shù)年前は広い駐車場だった。今は再開発工事中で、まだ至る所に監(jiān)獄跡が散見できる。當時の蘇州監(jiān)獄正門は倉街10號にあたり、2007年5月20日に相城區(qū)黃埭(タイ)鎮(zhèn)に移設した。(寫真2)はその移転日の門前風景である。広さは14萬平方メートルになり、最大4000名が収監(jiān)できる刑務所であった。干將路の南は現(xiàn)在、蘇州大學正門になった。
【その他の寫真】
蘇州監(jiān)獄は1910年(宣統(tǒng)2年)に建てられ、當時は獅子口といわれた地域だったので獅子口監(jiān)獄といわれ、南京の老虎橋監(jiān)獄、上海の堤籃橋監(jiān)獄とあわせて、中華民國三大監(jiān)獄といわれ、特に政治犯などの重罪人を収監(jiān)していた。
蘇州監(jiān)獄(獅子口監(jiān)獄)は1919年に江蘇第三監(jiān)獄と改名、500名ほど収監(jiān)していた??谷諔闋幗K了後は、國民黨政府司法部が接収して約300名の漢奸(日帝に協(xié)力した売國奴)が収監(jiān)されていた。その中の大物としては、陳公博(現(xiàn)在でも中國一の漢奸といわれる)、褚民諠、繆斌が1946年に死刑になり、偽南京政府大統(tǒng)領の汪兆銘(精衛(wèi))の妻であった陳壁君は終身刑(のちに上海堤籃橋監(jiān)獄に移送され獄死)に処せられたのが、この蘇州監(jiān)獄であった。1948年には江蘇蘇州監(jiān)獄と改名し、2007年5月まで使用された。
繆斌(立法院副院長)は死刑判決後直ちに1946年5月21日に銃殺刑第一號となり、中國第一の漢奸といわれた陳公博(偽南京國民政府行政院長)は同年6月3日に処刑、褚民諠(外交部長)は同年8月23日に処刑された。上海の堤籃橋監(jiān)獄では、立法院長であった梁鴻志が11月9日に銃殺刑となり、日本人では満蒙獨立運動を推進した馬賊?伊達順之助(華族伊達宗敦六男)が同じく銃殺刑に処せられた。
李香蘭こと山口淑子(1920~2014年)は、漢奸容疑で現(xiàn)存する虹口地區(qū)興業(yè)坊の日本人収容所に収監(jiān)され、上海競馬場(現(xiàn)在の人民広場)で処刑寸前であった。収監(jiān)されたのは漢奸専用の堤籃橋監(jiān)獄(上海市虹口區(qū)長陽路147號)でなく日本人収容所であったのは、中國人でないと國民黨政府は認知していたためであろう。本人の佐賀県の戸籍謄本が間に合い半年後に帰國させられたが、日本に協(xié)力する“中國人女性”を演じた不遇の人生がようやく終わった。
相門城郭から西を見ると、正面南側が商業(yè)ビル工事中であるが、中央部から北は荒野で、倉街側に當時の監(jiān)視塔跡(寫真3上)を見る事ができる。その周囲には當時の監(jiān)獄(刑務所)跡の住居跡(寫真3下)など垣間見る事ができた。ここで、多くの政治犯が処刑された。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學大學院工學研究科修了。韓國で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會社を指導する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演會を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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