吉田陽介 2020年8月8日(土) 11時30分
拡大
翻訳についてあまりわかっていない人は文字の置き換えだと考えがちだが、原文の意味を正しい日本語で伝える難しい仕事だ。難しいのは、原文の意味、そのなかに隠されているメッセージを読み取ることだ。資料寫真。
私は記事を書くかたわら、中日翻訳の仕事もしている。翻訳の魅力を紹介するサイトなどで何人かの翻訳者が、翻訳をすると、色々な考えに觸れることができるし、リサーチのなかで関連情報にも接することができるので、視野が広がると言っているが、私もそう思う。
■翻訳は簡単な仕事ではない、高度な技術(shù)が必要
翻訳についてあまりわかっていない人はただの文字の置き換えだと考えがちだが、原文の意味を正しい日本語で伝える難しい仕事だ。なかでも難しいのは、原文の意味、そのなかに隠されているメッセージを読み取ることだ。
私は中國で翻訳研究の學(xué)者が集う會議に參加したことがあるが、そこで必ずといっていいほど提起されたのが、ネイティブの翻訳者との交流だ。
原文の意味は辭書だけで理解できることもあるが、微妙なニュアンスの理解はネイティブの人の判斷を仰ぐ必要がある。さらに、母國語を外國語に翻訳する場合、原文を理解した上で文章を再構(gòu)成していくが、自分の書いた文章が文法的に正しいか、翻訳対象國の読者が読んでも違和感がないかを判斷するのも、ネイティブの翻訳者の力を借りなければならない。
私は政治関係の文章の翻訳をすることが多いが、専門用語の理解、引用されている俗語などの解釈は、ネイティブの翻訳者の力が必要で、教えを請うこともある。問題は交流の仕方だ。
ネイティブ翻訳者を辭書の代わりにして、調(diào)べればすぐにわかる問題を聞いてくる人を何人も見かけたが、これは交流ではなく、ただの「利用」に過ぎない。翻訳はクライアントから短い納期を提示されることはザラなので、時間をかけていちいち調(diào)べているより、いっそのことネイティブの人に聞いて終わりにしようという「怠け心」が出てしまうことがある。
もちろん、聞いた上で間違いないか確認(rèn)の意味で調(diào)べるならまだいいが、教えてもらった訳語をそのまま當(dāng)てはめたのでは、「いい翻訳」を作るという目標(biāo)を達(dá)成することはできないだろう。
というのは、ネイティブの人全てが「言葉のプロ」とは限らないからだ。
外國人翻訳者が問題にしている言葉は、ネイティブの人とって當(dāng)たり前のものなので、深く考えたことがない。聞かれても、どう説明していいか分からず、「う?ん」と考え込んでしまう?!袱嗓Δ胜螭扦工工然卮黏蚱趣椁欷毪?、自分の使っている感覚でこんな意味だと伝えることがある。
私はある中國人翻訳者に「さわりの部分」の意味について聞かれたことがある。突然聞かれたので、「それは初めの部分ですよ」と不用意に答えてしまった。だが、よく調(diào)べてみると、「盛り上りの部分」だったので、慌てて訂正した。ネイティブと非ネイティブの翻訳者同士の交流はネイティブ翻訳者が見落としている部分に気付くこともできるので、非常に意義のあることだ。
■微妙なニュアンスの把握にはネイティブの力が不可欠
ネイティブと非ネイティブの翻訳者との交流で次に大切なのはネイティブの人ならどう感じるかということを伝えることだ。
具體的なエピソードを紹介しよう。
私は日本語の漫畫を中國語に翻訳する中國人から日本語の訳語について相談を受けたことがある。
ファンタジー系の漫畫を訳している中國人の友人は、日本語の魔術(shù)師を中國語にするのにどうしたらいいか悩んでおり、こう聞いてきた。
「日本人の感覚で魔術(shù)ってどういうイメージですか。中國語で魔術(shù)というとマジックを連想します」。
私は若いときに「ファイナルファンタジー」にハマっていたこともあり、魔術(shù)師と聞くと人間の力を超越した術(shù)を使う人をイメージする。
だが中國人の友人が指摘するように、中國では「魔術(shù)」というと、確かにマジックのことを意味することが多く、「魔術(shù)師」は「マジシャン」だ。私が中國での生活を始めたばかりの時、中國人の友人と一緒に留學(xué)先の學(xué)校のイベントに參加した時、「今日は魔術(shù)が見られるよ」と言われたことがあるが、當(dāng)時私の中國語レベルも拙いこともあってか、「えっ、魔法的なことするのか」と誤解してしまった。
中國の翻訳者の「魔術(shù)師」の使い方は、そのままに使っているものもあれば、「魔法使い(魔法師)」としている人もいる。私は、中國語で「魔術(shù)師」というと、マジシャンと勘違いする読者もいるかもしれないし、辭書で中國語の「魔術(shù)」を引いたら、「奇術(shù)、手品」となっていたので、「魔法師」にしたらとアドバイスした。その友人は、結(jié)局顧客側(cè)に「魔術(shù)師」にしてほしいと言われて、「魔術(shù)師」にしたそうだ。
これは日本人と中國人の一つの言葉の使い方、捉え方の違いの例だが、漫畫とかは「私、あなたのことを…というように、省略する手法がある。すぐに分かるものもあるが、議論が分かれるものもある。こういう時は、ネイティブの専門の翻訳者の力が必要だ。
翻訳者の共通の目標(biāo)は「いい翻訳をつくる」こと。いい翻訳とは、作者が伝えたいメッセージを、意味を損なうことのないよう、母國語で伝えることだ。原文通りにできるところはその通りに訳すことが鉄則だが、そのままにしたら、読み手に誤解を與える恐れがある場合は、表現(xiàn)に工夫を凝らす必要がある。そこが翻訳者の腕の見せ所とも言えるが、一人の翻訳者の能力には限界があるので、同業(yè)者、特にネイティブの翻訳者との連攜が必要だ。
■「ネイティブの力はいらない」は暴論!?実のある中外交流は翻訳の質(zhì)を上げる
ただ、翻訳者は集団翻訳の場合を除き、基本的に一人で仕事をするので、橫のつながりがあまりない。嫌な同僚や上司と付き合わなくてもいいので、最高の環(huán)境だという人もいるが、獨善的になりやすいというデメリットがある。そのためか、いい翻訳とは何かということについて話し合う時、「○○さんの翻訳は自由にやりすぎだよね」「この間出た翻訳本はリサーチが甘いんじゃないか」というように、他の人の翻訳を批判するだけで、自分の翻訳が一番だと言わんばかりの意見が多かった。話し合うべきは、訳語を生み出す過程でどのような試行錯誤があったか、誤訳を減らすにはどうしたらいいかということだ。私を含め翻訳をする者は、翻訳作業(yè)の中で、常に「誤訳してしまうんじゃないか」という恐怖を感じる。誤訳のリスクを減らすにはどうしたらいいか、効率的なリサーチの仕方など、建設(shè)的な話をするべきではないかと思う。
また、ネイティブとの協(xié)力についても、否定的な翻訳者もいる。日中翻訳に従事するある中國人翻訳者は私にこう言った。
「日本人翻訳者の力を借りなくてもいいですよ。私がやっているのは日中翻訳ですから。中國語の表現(xiàn)は日本人にはわかりませんよ」。
その翻訳者の言うことは全面的に否定できないが、作業(yè)を一人で完結(jié)させるには原文の読み込みをしっかり行えるだけの読解力が備わっていなければならない。経済分野などある程度パターン化されているものなら、経験を積めば何とかなる。だが、文學(xué)などの分野は登場人物の微妙な心情の変化などを読みとる必要があるので、難易度がぐっと高くなる。その場合は、翻訳対象國の言語習(xí)慣に合わせて処理する必要があるが、微妙なところはネイティブの意見を聞く必要がある。したがって、その翻訳者が言うようにネイティブ翻訳者の力が全く必要ないということはない。
■翻訳の質(zhì)向上を話し合うプラットフォームを
最後に、いい翻訳を作るためにどうしたらいいかについて考えよう。
よく言われるのが勉強を重ねること。自分の専門とする翻訳に関する動向や新しい言葉を常にフォローすることはもちろんだが、細(xì)かいニュアンスの違いなども知っておく必要があることは言うまでもない。
翻訳會社などに所屬している翻訳者は、ネイティブの翻訳者も在籍している場合もあり、交流がしやすい。それに対し、個人で作業(yè)をしているフリーランスの人は、半ば社會から離れているような狀況なので、情報共有などが難しい。
翻訳者たちが案件の中で抱えている問題、ニュアンスの違いの問題を共有できるプラットフォームが必要だと私は思う。中國人の翻訳者が間違いやすい言葉、日本人の翻訳者が立ち往生しそうな問題について話し合い、それをインターネット上などで公開することが重要だ。
翻訳は自分でものを生み出すという仕事ではなく、他人の成果物に追隨している仕事と捉えられるため、地位が高いとはいえない。だが、翻訳は他國の人のアイデアを自國の人に伝える重要な作業(yè)で、それは「人類の財産」にもなりうる?!溉祟悿呜敭b」と言われるほどの古典の翻訳は高度な知識?ノウハウが必要だ。また、漫畫のような作品も、文化史資料となりうるので、後世の人たちが「いい仕事してるな」と言われるようなものを出さなければならない。
自分で翻訳をしていてよく感じることだが、自分のやり方があまり効率的ではない、使っていた言葉が適當(dāng)でなかったということもあるので、翻訳者同士の橫のつながりは大事だ。翻訳者は黒子に徹して表に出ることのない仕事で、その地位は決して高いとはいえないが、翻訳の大切さ、難しさなどを自ら情報発信していくことも、翻訳の質(zhì)向上、翻訳者という仕事が専門家として認(rèn)識されるために重要なことだと思う。
■筆者プロフィール:吉田陽介
1976年7月1日生まれ。福井県出身。2001年に福井県立大學(xué)大學(xué)院卒業(yè)後、北京に渡り、中國人民大學(xué)で中國語を一年學(xué)習(xí)。2002年から2006年まで同學(xué)國際関係學(xué)院博士課程で學(xué)ぶ。卒業(yè)後、日本語教師として北京の大學(xué)や語學(xué)學(xué)校で教鞭をとり、2012年から2019年まで中國共産黨の翻訳機関である中央編訳局で黨の指導(dǎo)者の著作などの翻訳に従事する。2019年9月より、フリーライターとして活動。主に中國の政治や社會、中國人の習(xí)慣などについての評論を発表。代表作に「中國の『代行サービス』仰天事情、ゴミ分別?肥満?彼女追っかけまで代行?」、「中國でも『おひとりさま消費』が過熱、若者が“愛”を信じなくなった理由」などがある。
この記事のコメントを見る
Record China
2020/3/31
2018/6/24
2017/12/20
吉田陽介
2020/7/2
2020/3/26
ピックアップ
we`re
RecordChina
お問い合わせ
Record China?記事へのご意見?お問い合わせはこちら
業(yè)務(wù)提攜
Record Chinaへの業(yè)務(wù)提攜に関するお問い合わせはこちら
この記事のコメントを見る