歐米諸國(guó)が侵略の「被害國(guó)」である中國(guó)に同情しなかったのはなぜか?日本が仕掛けたワナ―中國(guó)メディア

Record China    2014年2月2日(日) 1時(shí)21分

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30日、人民網(wǎng)は「歐米諸國(guó)は、なぜ日清戦爭(zhēng)で侵略を受けた中國(guó)に同情しなかったのか」とする內(nèi)容の記事を掲載した。寫真は中國(guó)の日清戦爭(zhēng)博物館。

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2014年1月30日、人民網(wǎng)は「歐米諸國(guó)は、なぜ日清戦爭(zhēng)で負(fù)けた中國(guó)に同情しなかったのか」とする內(nèi)容の記事を掲載した。

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1894年に起きた日清戦爭(zhēng)は、中國(guó)の近代史における大きな転換點(diǎn)だった。中國(guó)はなぜ日清戦爭(zhēng)に失敗したのか?これまでさまざまな原因が指摘されてきたが、ここではその中でも軽視されがちな日本の“宣伝戦”という點(diǎn)にスポットライトを當(dāng)てたい。中國(guó)は、國(guó)家のイメージやメディアの宣伝戦略といった部分で、ことごとく日本に負(fù)けた。

中國(guó)人にしてみれば、日清戦爭(zhēng)は侵略戦爭(zhēng)である。しかし、當(dāng)時(shí)の歐米メディアの報(bào)道やその後の史學(xué)的記述の多くは、中國(guó)に同情的とは言えず、逆に日本が中國(guó)に勝利したことは、“文明”が“野蠻”に勝利したとみなされている。これは日本による宣伝戦の成果であると言える。

日清戦爭(zhēng)に際し、両國(guó)の指導(dǎo)者は宣戦の詔書を発表した。中國(guó)側(cè)は朝鮮と屬國(guó)と考え、內(nèi)部事情に日本は関わるべきでないとの立場(chǎng)だった。しかし日本は、朝鮮を獨(dú)立國(guó)だと考えており、中國(guó)がその地位を脅かしているというものだった。この日本の主張は、実は中國(guó)へ向けたものではなく、世界に向けられたものだった。最終的に當(dāng)時(shí)の世界の世論に影響を與えることとなる。

日本の外交官の多くは現(xiàn)地の言語(yǔ)に精通しており、メディアで文章を発表していたのに対し、中國(guó)の大使の多くはアルファベットもわからなかった。さらに、中國(guó)の大使が駐在國(guó)の要人の家族に土産物を渡したりして取り入ろうとしたのに対し、日本の大使は毎日のように本人を訪ね、両國(guó)関係がどれほど大事かということについて語(yǔ)っていた。

青木周蔵元外相は、歐州世論のコントロールという重要な任務(wù)を負(fù)っていた。當(dāng)時(shí)、日本と中國(guó)はともに歐米メディアの従軍取材を拒んでいたが、彼の働きかけで日本は取材を受け入れ、日本軍が捕虜を手厚く扱っている様子などを大いに宣伝させた。第3者である歐米メディアの報(bào)道が、中國(guó)を不利な立場(chǎng)へと追いやることとなった。一方の中國(guó)メディアはひどいありさまだった。メディアを政治の道具としか考えておらず、自ら虛偽報(bào)道を亂発した。そのせいで、報(bào)道內(nèi)容のほとんどが信用されなくなり、結(jié)果的に中國(guó)のイメージを大きく損なうこととなった。

日清戦爭(zhēng)において日本は実際の戦場(chǎng)以外でも宣伝、メディアの領(lǐng)域において大きな力を発揮した。中國(guó)は剣でも負(fù)け、ペンでも負(fù)けた。われわれはまず、そこから學(xué)ばなければならないだろう。(翻訳?編集/北田

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