Record China 2014年2月12日(水) 5時(shí)22分
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中國の都市化では、農(nóng)村と都市の二重構(gòu)造を打破するというのが、もっとも大きな課題です。日本では人の移動(dòng)が自由であったために、都市化における人の移動(dòng)の制限を加えてきたことはありませんでした。寫真は寫真は福建省福州市。
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中國の都市化では、農(nóng)村と都市の二重構(gòu)造を打破するというのが、もっとも大きな課題です。日本では人の移動(dòng)が自由であったために、都市化における人の移動(dòng)の制限を加えてきたことはありませんでした。しかし、中國では戸籍制度を基本として人の自由な移動(dòng)に制限が存在します。
【その他の寫真】
中國內(nèi)外から改善を求める聲が高まっていますが、農(nóng)村と都市の二重構(gòu)造、人の移動(dòng)の制限の改革はなかなか進(jìn)みません。それはなぜなのか、當(dāng)局が改革に慎重なのは、過去の失敗の記憶、都市化のトラウマとジレンマがあるからです。
■第1次五カ年計(jì)畫における都市化とその問題
新中國の成立前まで、共産黨は農(nóng)村を中心とする革命を行ってきました。共産黨の革命重點(diǎn)が農(nóng)村から都市に転換したのは、1949年の中共第7期二中総會(huì)(中央委員會(huì)第二回総會(huì))による毛沢東報(bào)告です(小林1974)。毛沢東が「都市の生産を回復(fù)し発展させ、消費(fèi)的な都市を生産的な都市にかえたとき、人民の権利は、初めて強(qiáng)固なものになる」と報(bào)告しました。これをきっかけに「消費(fèi)都市から生産都市へ」の基本的な流れができます(小島1978)。
そこで、第一次五カ年計(jì)畫では重工業(yè)化と都市化の方針で経済建設(shè)が開始されました。
解放當(dāng)時(shí)の都市建設(shè)の目標(biāo)は都市公共施設(shè)の修復(fù)?建設(shè)と環(huán)境衛(wèi)生(上下水道、ごみ処理など)の改善でした(以下、主に越?jīng)g1978)。とくに大きな問題は、住宅でした。日中戦爭時(shí)大量の農(nóng)民が離村し都市へ流入してスラムを形成していたからです。また解放後多くの農(nóng)民が都市に流入するとともに(都市人口増加の2/3は農(nóng)村からの流入)、家族を呼び寄せるため、一人當(dāng)たりの住宅面積は減少、住む場(chǎng)所のない労働者も増加していました。(都市に行けば住宅が分配されるという期待も農(nóng)民が都市に移動(dòng)したインセンティブになったらしい。)
重工業(yè)化にともなって、都市近郊の農(nóng)地が収用されました。肥沃な土地が荒地と化し、農(nóng)業(yè)生産に支障をもたらすとともに、さらに農(nóng)民の転業(yè)問題を引き起こしました。1956年國務(wù)院は土地収用に関する浪費(fèi)の防止について通達(dá)も出しています。
工業(yè)化を支える商品化食糧の供給にも問題が発生します。副食品(野菜、肉、卵など)の供給は不足しがちで、北京、上海、天津などの11都市の野菜の供給率は7?8割程度でした。野菜は長距離輸送に向かないため、近郊農(nóng)業(yè)を発展させる必要がありますが、土地収用でそれもままならないという狀況でした。
■大躍進(jìn)期における都市化政策の転換
この住宅供給、土地収用、食糧供給の3つが都市化のネックとなり、大躍進(jìn)期より都市化の方針に大きな転換がおきます。
第一の転換が工業(yè)分布の「大分散、小集中」です。大都市の発展を抑制し、中小都市の工業(yè)化に力を入れることとなりました。
第二の転換が農(nóng)村人民公社の設(shè)立と農(nóng)村工業(yè)化政策です。1958年から急速に人民公社化が進(jìn)められ、農(nóng)民の集団化と農(nóng)村における工業(yè)化が進(jìn)められることとなりました。
第三の転換が下放政策です。都市技術(shù)者や青年を農(nóng)村に下放するとういうことです。
実際の人口移動(dòng)をみてみると、第1次五カ年計(jì)畫が終了する1957年まで毎年200萬人から300萬人程度の労働が農(nóng)村から都市に移動(dòng)しました。その後大躍進(jìn)期(1958?1961)に地方各都市で工業(yè)化が進(jìn)められ、2000萬人が地方都市に移動(dòng)しました。でも増大する人口が都市で抱えきれずに1961年にほぼ同數(shù)の労働が農(nóng)村に帰されました。その後文革期を通じて青少年の農(nóng)村下放政策が制度化され、1080萬人が農(nóng)村に送られたと見られます(以上、數(shù)値は小島1978、pp.19?21)。
この第1次五カ年計(jì)畫では、増加した人口を都市で解決できなかったのです。これが中國の「都市化のトラウマ」になっています。
■現(xiàn)在の都市化と過去との類似
このように過去の都市化を振り返ってみると、現(xiàn)在の都市化政策と似た部分が非常に多くあります。共通點(diǎn)にもとづいて現(xiàn)在の都市化政策の狀況をみてみると
(1)都市化のための土地収用が行われていること。
(2)食料供給維持のため、18億ムー(約1億2000萬ヘクタール)という耕地保護(hù)の方針を打ち出していること。
(3)「新農(nóng)村建設(shè)」という名目で農(nóng)村の都市化が進(jìn)められていること。(ついでに言えば大學(xué)生「村官」、大學(xué)生を數(shù)年間村の幹部として現(xiàn)場(chǎng)を経験させることが実施されている。)
(4)大都市の抑制と中小都市の発展を目指していること。
です。
大都市広州では、2020年の人口総量規(guī)制は1500萬人(定住人口)ですが、2012年ですでに1600萬人になっています。一日に1.4萬トンのごみ処理を行い、465萬トンの汚水を処理する必要があります。副食品に至っては、一日に1.5萬頭の豚を屠殺しないと豚肉の供給が間に合わなし、1500萬斤(1斤500g程度)の野菜を供給しないと市場(chǎng)需要に追いつかないとされます(『羊城日?qǐng)?bào)』2014年1月19日)。
當(dāng)然、北京、上海などの大都市でも同じように都市環(huán)境維持の公共設(shè)備の拡大は必要ですし、必要な安定した副食品の確保は重要です。都市の公共サービスの提供と食糧の確保は重要な課題になっています。
■都市化のジレンマ
先にも述べたように中國には都市化のトラウマがあります。それは、第1次五カ年計(jì)畫期において、増加する人口を都市で吸収しきれなかったというものです。都市における人口増加、そして増加した人口に住宅や社會(huì)保障を提供するというのは、財(cái)政の問題もあって非常に難しい問題です。
都市が拡大することによって農(nóng)地が都市用地に転換されていくと、農(nóng)業(yè)生産の減少につながります。中國の膨大な人口を養(yǎng)うには最低限の耕地確保は必要です。都市の容量と必要な農(nóng)業(yè)の確保、このバランスの中で人口をどのように都市、農(nóng)村に配分するか、これが中國政府の政策擔(dān)當(dāng)者が抱える問題であり、中國都市化のジレンマです。
増加する人口が都市部に流入すると農(nóng)業(yè)や公共サービスに影響を與えます。だからといって人口を農(nóng)村に貼り付けておくことは、サービス産業(yè)化、消費(fèi)型産業(yè)のさらなる経済発展の足かせになってしまいます。
以上のように、過去の都市化で失敗したトラウマを抱えて中國政府は、人口の都市農(nóng)村配分という問題に直面しています。そのジレンマは過去から何も変わっていません。
都市化を過剰人口の都市農(nóng)村配分という角度からみて、どのような有効な政策を打ち出すことが可能なのか。まもなく発表される予定の『國家新型都市化計(jì)畫』が楽しみです。
<參考文獻(xiàn)>
小林弘二(1974)『中國革命と都市の解放:新中國初期の政治過程』有斐閣
小島麗逸(1978)「社會(huì)主義建設(shè)と都市化」(小島麗逸編『中國の都市化と農(nóng)村建設(shè)』龍渓書舎)
越?jīng)g明(1978)「都市政策の変遷と都市計(jì)畫」(小島麗逸編『中國の都市化と農(nóng)村建設(shè)』龍渓書舎)
◆筆者プロフィール:岡本信広(おかもと?のぶひろ)
大東文化大學(xué)國際関係學(xué)部教授。1967年徳島県生まれ。著書に『中國?奇跡的発展の「原則」』アジア経済研究所、『中國の地域経済?空間構(gòu)造と相互依存』日本評(píng)論社がある。
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