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「日本人=調(diào)査者、臺灣人=被調(diào)査者」を超えて…『民俗臺灣』―「皇民化運動」に抗った雑誌

Record China    2014年2月15日(土) 17時47分

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太平洋戦爭の勃発が目前に迫った1941年7月、臺北で『民俗臺灣』という雑誌が創(chuàng)刊された。刊行の中心となったのは池田敏雄という人物。寫真は臺灣。

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太平洋戦爭の勃発が目前に迫った1941年7月、臺北で『民俗臺灣』という雑誌が創(chuàng)刊された??肖沃行膜趣胜盲郡韦铣靥锩粜郅趣いθ宋铩1摔瞎珜W(xué)校(臺灣人向けの小學(xué)校)教諭だった頃から臺北の下町?[舟孟舟甲](現(xiàn)在の萬華區(qū))に住み込み、庶民文化にすっかり馴染んでいたほどの臺灣びいきであった。

その他の寫真

池田敏雄という「臺灣オタク」が雑誌『民俗臺灣』を牽引した情熱は、日本人/臺灣人という民族の壁や、支配者/被支配者という植民地體制の壁を乗り越えようとしていた。そのことの意義は、歴史を見るにしても、民族共存という現(xiàn)代的問題を考えるにしても資するところがあるのではないか。

南進(jìn)の前線基地と位置付けられていた臺灣では戦時色が日増しに色濃くなりつつあり、陰に陽に臺灣人の「日本人」化を推し進(jìn)める、いわゆる「皇民化運動」が展開されていた。臺灣人の民俗文化を記録することは、見方を変えれば日本人との文化的相違を際立たせることでもある。こうした時代狀況下では當(dāng)局から歓迎されるはずもない。ましてや、池田は公學(xué)校教諭を辭めた後は臺灣総督府情報課に勤務(wù)する公務(wù)員となっており、彼が雑誌刊行の正面に立つわけにはいかなかった。

そこで、池田は臺北帝國大學(xué)醫(yī)學(xué)部教授の金関丈夫に相談する。金関は『民俗臺灣』の創(chuàng)刊趣旨に賛同し、編集人となることを快諾した。金関の帝國大學(xué)教授という肩書きの権威が當(dāng)局に対して抑えになるという計算である。

金関の本職は解剖學(xué)者であるが、彼は形質(zhì)人類學(xué)の観點から考古學(xué)に関心を持っていたばかりでなく、歴史や文學(xué)にも広く造詣があり、文筆を得意とする博物學(xué)的な才人であった。実質(zhì)的な編集実務(wù)は池田が取り仕切ったが、折に觸れて金関から知恵を授けてもらうようになる。単に民俗學(xué)的な記録を並べるのではなく、肩のこらない読み物として工夫するようアドバイスしたのも金関である。金関自身がかつて関わっていた人類學(xué)?考古學(xué)の雑誌『ドルメン』(岡書院から1932年に創(chuàng)刊)がモデルになったという。

植民地當(dāng)局が推進(jìn)する近代化と日本化(皇民化)、こうした社會的圧力によって臺灣古來の習(xí)俗が消え去りつつあるのを憂える人々によって『民俗臺灣』が擔(dān)われていた點では、例えば、朝鮮半島における柳宗悅や淺川伯教?巧兄弟などのような存在にたとえられるだろうか。

■「日本人=調(diào)査者、臺灣人=被調(diào)査者」の構(gòu)図を超えて…『民俗臺灣』の特徴

『民俗臺灣』の特徴としては、差し當(dāng)たって次の二點があげられるだろう。第一に、立石鉄臣の描いたイラストや、松山虔三の撮った寫真によって、ヴィジュアルとして民俗資料の記録に努めたこと。文章だけでは捉えきれない視覚的な具象性は資料として貴重である。とりわけ立石のイラストにはある種の溫もりが感じられて、一般読者の興味を大いにそそったことであろう。

第二に、日本人ばかりでなく、臺灣人からの寄稿を積極的に募ったこと。編集運営の主力メンバーであった黃得時、楊雲(yún)萍(二人とも戦後は臺灣大學(xué)教授)をはじめ、例えば作家の楊逵、張文環(huán)、呂嚇若、龍瑛宗、周金波、巫永福、呉新栄、畫家?工蕓家の顔水龍、歴史家の曹永和、法制史家の戴炎輝、社會學(xué)者の陳紹馨、労働運動家の連溫卿、弁護(hù)士の陳逸松、醫(yī)學(xué)者の杜聡明といった臺灣知識人の錚々たる顔ぶれを誌面から見出すことができる。さらには市井の一般読者からの投稿も歓迎していた。

『民俗臺灣』編集同人には、日本人=調(diào)査者、臺灣人=被調(diào)査者という対峙的な構(gòu)図に陥ってしまわないように、臺灣人自らによって民俗文化の記録を促す意図があったと言えよう。臺灣では、日本統(tǒng)治時代には「日本史」を、戦後の國民黨政権時代には「中國史」を「自分たちの歴史」として押し付けられたという経緯がある?!好袼着_灣』編集同人が臺灣人自身の主體性を促しながら民俗資料の記録に努めたことは、近年になって「臺灣人」アイデンティティーの確立に寄與したという評価につながっていく。

■『民俗臺灣』は「植民地民俗學(xué)」だったのか?

「日本の植民地支配は良いこともした」と言ってふんぞり返るのは論外であるが、かつての植民地支配や対外的侵略といった負(fù)い目を持っている日本人の立場から現(xiàn)代史を考えようとする場合、「語り口」のナーバスな難しさに困惑することがしばしばある。

とりわけアカデミズムにおいてポストコロニアルのアプローチが盛んになると、支配者/被支配者、中央/周縁といった枠組みを前提とした學(xué)知的構(gòu)造そのものがはらむ知的暴力性が問題とされ、當(dāng)時においては一見「良心的」な振る舞いに見えたとしても、こうした學(xué)知的構(gòu)造に彼らも取り込まれていた以上、その責(zé)任は逃れがたいという見解が主流となってきた。例えば、川村湊『「大東亜民俗學(xué)」の虛実』(講談社選書メチエ、1996年)が、『民俗臺灣』は柳田國男が構(gòu)想した(と川村が言う)「植民地民俗學(xué)」の一環(huán)に過ぎないと斷罪したのはその代表例である。

ところで、川村をはじめとした論者は『民俗臺灣』の植民地性を物語るエピソードとして、『民俗臺灣』創(chuàng)刊趣意書(金関の執(zhí)筆)にあった「臺灣舊慣の湮滅を惜しむのではない」という文言をとらえて楊雲(yún)萍が「冷たい」と非難するという一悶著があったことを取り上げる。しかしながら、「皇民化運動」という當(dāng)時の時勢の中、総督府から睨まれないよう筆を曲げなければならない事情があった點を考慮する必要があろう。

実際には、間もなく楊雲(yún)萍は金関と和解したようで、『民俗臺灣』に何度も寄稿している。彼は戦後になって「今にして思えば、當(dāng)時の荒れ狂う時勢の中で、先生がたの苦心を、若かった僕は、冷靜に受け取れなかった所があったと思う。」「『民俗臺灣』の創(chuàng)刊は、日本人の真の勇気と良心のあらわれであった」(注1)と記しているのだが、こうしたことを川村が取り上げないのは議論の構(gòu)成に恣意性が疑われる。

また、黃得時は「ある人から、民俗臺灣は日本人の編集した雑誌である。したがってその中には、民族的偏見あるいは民族的岐視の傾向があるのではないかという疑問を投げかけられたことがある。自分も発起人の一人であったからよく知っているが、その點についてはあえていう、絶対にそのような事情はなかったと答えておいた。もしそうでなければ、民俗臺灣が総督府當(dāng)局から、皇民化政策を妨害するものとして、たえず圧迫と白眼視を受けるはずはなかった」と語っていた(注2)。

客観性を標(biāo)榜する學(xué)問的営為そのものの中に無意識のうちに紛れ込んでいる偏見を暴き出し、その自覚を促した點でポストコロニアルの議論が貢獻(xiàn)した成果は大きい。他方で、それが一つの理論として確立され、事情を問わずに一律に適用され始めると、今度は斷罪という結(jié)論が初めにありきで、當(dāng)時を生きた人々の生身の葛藤が看過されかねない。そうしたスタンスの研究には欠席裁判の傲慢さ、冷たさすら感じられる。當(dāng)時において成立していた學(xué)知的構(gòu)造の矛盾に気づいていたとしても、少數(shù)の人間だけで動かしていくのは極めて困難であろう。そうではあっても良心的に振舞おうと思った人間の主観的な情熱は、「偏見」を崩せなかったという理由において、無自覚な構(gòu)造的加害者として一律に斷罪されなければならないのだろうか?

こうした問題意識をふまえて、「構(gòu)造的加害者の側(cè)に立つ人間であっても、彼らには多様な思いや植民地支配に対する不合理性への懸念などがありえたのではないだろうか?」と三尾裕子は問いかけている?!好袼着_灣』にしても、時局に迎合的なことも書かなければそもそも雑誌の存続自體が困難であった。そうしたギリギリのバランスの背後にあった真意を誌面の文字列だけからうかがうのは難しい?!肝摇─?、とかく明確な立場表明を行った抵抗以外の言説を植民地主義的である、と斷罪しがちであるが、自分とは違った體制下の人の行動を、現(xiàn)在の分析者の社會が持つ一般的価値観で判斷することは、「見る者」の権力性に無意識であるという點において、植民地主義と同じ誤謬を犯している」という指摘には私も共感できる(注3)。

■『民俗臺灣』の継承と「蛍の光」

戦局も押し迫ってきた1944年7月、編集実務(wù)の一切を切り盛りしていた池田が召集されてしまった。畫家の立石鉄臣がかわって編集作業(yè)を行うが、その立石までやはり召集されてしまう。最後は金関が一人で編集にあたり、1945年1月號まで何とか粘り続けた。

日本の敗戦で臺灣は中華民國へと返還される。こうした體制転換にあたって、『民俗臺灣』の人的ネットワークはこれまで蓄積してきた臺灣研究の成果を引き継ぐ上で大きな役割を果たした。金関丈夫は新制臺灣大學(xué)醫(yī)學(xué)院教授、國分直一は同文學(xué)院副教授となり、池田敏雄は臺灣省編訳館臺灣研究組に所屬するといった形で『民俗臺灣』編集同人たちも留用され、引き続き臺北で暮らすことになった(「留用」とは特別な技術(shù)を持った人々が國民黨の要請によってしばらく現(xiàn)地に留まったことを指す)。

気心の知れた楊雲(yún)萍が臺灣研究組の責(zé)任者となり、編訳館の館長には日本留學(xué)経験のある知日派で魯迅の親友だったリベラリスト、許壽裳が就任。臺灣人、留用された日本人、來臺した中國の知識人、こうした人々が民族的垣根を越えて交流するシーンが戦後間もなく、ほんのひと時とはいえ出現(xiàn)したというのが実に興味深い。

1947年2月、いわゆる二二八事件が起こった。ちょうど臺灣南部の曽文渓への調(diào)査で出張していた金関と國分は命からがらたどり著いた臺北駅で裝甲車から銃撃を受けるなど、騒亂をじかに目撃したらしい。留用日本人が臺灣人を煽動したのではないかと當(dāng)局は疑っていたとも言われ、日本人の帰國が早まった。臺灣省編訳館は閉鎖され(翌年には許壽裳が暗殺される)、日本への引揚船が順次出航、『民俗臺灣』編集同人も船上の人となった。1948年12月に引揚船に乗った立石鉄臣は、基隆の港から船が離れるとき、波止場に集まっていた臺灣の人々が一斉に日本語で「蛍の光」を歌いだし、近寄ってきたランチは日章旗を振って見送ったことを回想している。

(注1)『えとのす』第21號、1983年7月。

(注2)『臺灣近現(xiàn)代史研究』第4號(1982年10月)所収の池田敏雄の回想から。

(注3)三尾裕子「『民俗臺灣』と大東亜共栄圏」(貴志俊彥?荒野泰典?小風(fēng)秀雅編『「東アジア」の時代性』[渓水社、2005年]所収)、同「植民地下の「グレーゾーン」における「異質(zhì)化の語り」の可能性──『民俗臺灣』を例に」(『アジア?アフリカ言語文化研究』第71號[2006年3月])を參照。

◆著者プロフィール:黒羽夏彥(くろは?なつひこ)

臺灣専門ブログ「ふぉるもさん?ぷろむなあど」、書評ブログ「ものろぎや?そりてえる」を運営。1974年生まれ。出版社勤務(wù)を経て、2014年3月より臺南の國立成功大學(xué)文學(xué)院華語中心へ留學(xué)予定。

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