同化か、自治か―臺(tái)灣に憲政を求めた林獻(xiàn)堂の方針転換

Record China    2014年2月20日(木) 1時(shí)10分

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東アジアの近代を考える上で梁?jiǎn)櫝ē辚ⅴ?チーチャオ)の存在感は大きい。日本統(tǒng)治下における臺(tái)灣民族運(yùn)動(dòng)の立役者として知られる林獻(xiàn)堂(リン?シエンタン)もまた政治的方向性を模索する中で梁?jiǎn)櫝椁斡绊懁蚴埭堡皮い?。寫真は臺(tái)灣。

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東アジアの近代を考える上で梁?jiǎn)櫝ē辚ⅴ?チーチャオ)の存在感は大きい。日本統(tǒng)治下における臺(tái)灣民族運(yùn)動(dòng)の立役者として知られる林獻(xiàn)堂(リン?シエンタン)もまた政治的方向性を模索する中で梁?jiǎn)櫝椁斡绊懁蚴埭堡皮い俊?/p>

その他の寫真

1907年に27歳だった林獻(xiàn)堂は初めて東京へ行った。當(dāng)時(shí)、戊戌の政変(1898年)に敗れて日本へ亡命していた梁?jiǎn)櫝蠙M浜で「新民叢報(bào)」社を設(shè)立して、清朝の立憲改革を求める言論活動(dòng)を精力的に展開していた。かねてから梁?jiǎn)櫝问⒚蚵劋い皮い苛肢I(xiàn)堂は是非とも面會(huì)したいと思い、橫浜の彼の寓居を訪問したが、あいにくなことに不在。後ろ髪を引かれる思いで立ち去ったが、臺(tái)灣へ帰る途中に寄った奈良で、旅行中だった梁?jiǎn)櫝扰既护顺鰰?huì)う。

梁?jiǎn)櫝蠋跂|訛り、林獻(xiàn)堂は●南語(●=もんがまえに蟲)を話す。二人は言葉が通じないため筆談で語り合った。漢民族意識(shí)の強(qiáng)い林獻(xiàn)堂は日本の植民地とされた臺(tái)灣の苦境を訴えたが、梁?jiǎn)櫝畏荡黏悉长Δ坤盲??!钢袊摔辖襻?0年間、臺(tái)灣人を助ける力はない。だから、臺(tái)灣同胞は軽挙妄動(dòng)していたずらに犠牲を増やすべきではない。むしろ、大英帝國におけるアイルランド人のやり方を見習(xí)って、日本の中央政界の要人と直接結(jié)び付き、その影響力を利用して臺(tái)灣総督府を牽制する方が良い」(注1)──當(dāng)時(shí)、アイルランド自治法案の可決に努めていたイギリス自由黨のグラッドストン內(nèi)閣を念頭に置いていたのだろう。

林獻(xiàn)堂の熱心な招待を受けて梁?jiǎn)櫝?911年3月に臺(tái)灣を訪れた。梁?jiǎn)櫝趣筏皮?、自らの立憲運(yùn)動(dòng)や新聞事業(yè)のため募金集めをしようという思惑があった。林獻(xiàn)堂は連雅堂(リエン?ヤータン、『臺(tái)灣通史』の著者で、連戦?元副総統(tǒng)の祖父)を伴って日本からの船が到著する基隆まで出迎え、そこから汽車へ同乗、臺(tái)北駅に降り立った梁?jiǎn)櫝隙啶稳恕─闊崃窑蕷Z迎を受ける。

梁?jiǎn)櫝吓_(tái)灣各地を回って在地の名士たちと語り合った。言葉は通じないので筆談となるが、儒教的伝統(tǒng)の知識(shí)人は詩文を取り交わすのが習(xí)わしだから問題はない。しかし、在地の知識(shí)人は総督府の専制政治への不満を訴えるものの、梁はむしろ日本統(tǒng)治による近代化を評(píng)価しており、両者の考えは必ずしも一致していなかった。ただし、平和的?漸進(jìn)的に政治改革を進(jìn)めるべきだという梁?jiǎn)櫝问舅簸弦欢à斡绊懁蚣挨埭埂?/p>

中國の伝統(tǒng)的な知識(shí)人としての自負(fù)があった林獻(xiàn)堂は、檪社という詩文グループに屬していた。檪とは無用の木のことで、すなわち日本統(tǒng)治下では無用の人間という意味合いが込められている。そのような命名からうかがわれるように、詩社には清朝遺民の気風(fēng)を持つ知識(shí)人が多く集まっていた。臺(tái)中の檪社の他、臺(tái)北の瀛社、臺(tái)南の南社が有名で、こうした人的ネットワークが梁?jiǎn)櫝瑲Z迎の際にも機(jī)能したのだろう。

■林獻(xiàn)堂と板垣退助

梁?jiǎn)櫝_(tái)灣を去った1911年、辛亥革命が勃発する。1912年には中華民國が成立し、この機(jī)會(huì)に乗じて清朝の皇帝を退位させた袁世凱が自ら大総統(tǒng)の地位に就く。梁?jiǎn)櫝显绖Pの招きを受けて財(cái)政総長に就任した。

林獻(xiàn)堂は1913年に北京へ赴いて新政権の様子をうかがうのと同時(shí)に、袁世凱政権と対立関係にあった國民黨の要人とも接觸する。中國の実情を自ら観察した林獻(xiàn)堂は、國內(nèi)がこのように混亂している以上、臺(tái)灣を助けるどころではないことを見て取った。その點(diǎn)では、確かに梁?jiǎn)櫝预Δ趣辘扦ⅳ?。そうなると、臺(tái)灣人は自助努力によって目標(biāo)を達(dá)成しなければならない。

第一に武力で日本の統(tǒng)治者に抵抗するのは難しい、第二に現(xiàn)時(shí)點(diǎn)で中國には臺(tái)灣を解放する能力はない、第三に日本統(tǒng)治による近代化は一定の成功を収めている──こうした認(rèn)識(shí)を踏まえて考えるなら、日本統(tǒng)治を當(dāng)面の前提とした上で権利の向上を図るのが次善の策となる。そこで林獻(xiàn)堂は、臺(tái)灣人の地位や待遇を日本人と同等にするよう求めることに民族運(yùn)動(dòng)の最初の照準(zhǔn)を合わせた。

林獻(xiàn)堂は東京で板垣退助や大隈重信などの政治的有力者に面會(huì)を求めた。1914年には二度にわたって板垣を臺(tái)灣へ招く。かつて自由民権運(yùn)動(dòng)の闘士であった板垣は、林獻(xiàn)堂の話を聞いて臺(tái)灣人の置かれた差別的境遇に同情した。他方で、國権論者でもある板垣は、日本の南進(jìn)政策や「日支親善」の架け橋となることを臺(tái)灣人に期待していた。

板垣の思想は、尊厳と権利の向上を求める臺(tái)灣人側(cè)の思いとは同床異夢(mèng)だったかもしれない。いずれにせよ、板垣の肝いりで同年12月20日に臺(tái)灣人差別の撤廃を目指した「臺(tái)灣同化會(huì)」が成立する。こうした動(dòng)きを臺(tái)灣総督府は警戒していたが、板垣の名聲を前にしておいそれとは手が出せない。林獻(xiàn)堂は「中央政界の要人と手を組め」という梁?jiǎn)櫝违ⅴ丧啸ぅ工虻拇_に実行したわけである。ただし、板垣が日本へ帰ると、翌年の1915年2月に「臺(tái)灣同化會(huì)」は解散させられてしまった。

■臺(tái)灣にも「帝國臣民」としての権利を、六三法撤廃運(yùn)動(dòng)とその転換

1910年代以降、日本へ留學(xué)する臺(tái)灣人が増えつつあった。植民地臺(tái)灣とは異なり比較的自由な東京で先進(jìn)的な知識(shí)や思想に出會(huì)った彼らは植民地體制の矛盾をますます認(rèn)識(shí)するようになり、そうした気運(yùn)は臺(tái)灣民族運(yùn)動(dòng)を新たな方向へと導(dǎo)くことになった。東京にいた臺(tái)灣人留學(xué)生が議論を交わした最重要のテーマが「六三法撤廃」問題である。

臺(tái)灣も大日本帝國の版図に含まれた以上、本來ならば日本人と同様に帝國臣民としての権利を享受できるはずである。ところが、日本政府は植民地統(tǒng)治の特殊性に鑑みて臺(tái)灣における憲法の施行を保留し、明治29年法律第63號(hào)(通稱を六三法といい、その後、明治39年法律第31號(hào)に引き継がれる)によって臺(tái)灣総督の栽量による法律制定を可能にしていた。

つまり、臺(tái)灣総督府の専制的統(tǒng)治を批判し、臺(tái)灣も憲政の枠內(nèi)に組み入れるよう求めるのが「六三法撤廃」問題の要點(diǎn)である。こうした考えから林獻(xiàn)堂たちは「六三法撤廃期成同盟」を設(shè)立して運(yùn)動(dòng)を展開した。板垣退助と共に設(shè)立した「臺(tái)灣同化會(huì)」も同様の考え方に基づいていたと言える。

ところで、六三法を撤廃して臺(tái)灣を日本の憲法の枠內(nèi)に組み込むと、臺(tái)灣人を権利面で同等な立場(chǎng)に引き上げることはできるかもしれない。他方でそれは、臺(tái)灣人を日本人に吸収=同化させてしまうことにならないか?

ちょうど第一次世界大戦が終わり、ウィルソンの提唱した民族自決の原則が世界中で大きな反響を巻き起こしていた時(shí)期である。留學(xué)生たちはむしろ、臺(tái)灣の特殊性を強(qiáng)調(diào)して臺(tái)灣自治のための議會(huì)設(shè)立を優(yōu)先させるべきだと考えた。こうした論爭(zhēng)を受けて、林獻(xiàn)堂も1920?21年頃に六三法撤廃運(yùn)動(dòng)から臺(tái)灣議會(huì)設(shè)置請(qǐng)願(yuàn)運(yùn)動(dòng)へと方針を転換させる。

■內(nèi)地延長主義と特別統(tǒng)治主義、同化主義と民族的自治

憲法を臺(tái)灣に施行して臺(tái)灣人にも日本人と同様の権利?義務(wù)を持たせる考え方を內(nèi)地延長主義といい、六三法撤廃運(yùn)動(dòng)はこれに依拠していた。しかし、こうした方向性は民族主義的な立場(chǎng)からすると日本人への同化主義と捉えられる。対して、臺(tái)灣の特殊性を理由として日本內(nèi)地とは別建ての統(tǒng)治システムを?qū)g施することを特別統(tǒng)治主義という。六三法によって憲法を棚上げした臺(tái)灣総督の統(tǒng)治はその具體化であった。

他方で、これを臺(tái)灣の特殊性を認(rèn)めるものと捉えるなら、同化を拒む民族主義的な立場(chǎng)からは自治への方向性を読み取ることも可能である。日本人か、臺(tái)灣人かという立場(chǎng)の相違、専制的統(tǒng)治か民主的統(tǒng)治かという方向性の相違によって解釈は異なってくるが、いずれにせよ、六三法撤廃運(yùn)動(dòng)から臺(tái)灣議會(huì)設(shè)置請(qǐng)願(yuàn)運(yùn)動(dòng)への方針転換は、権利向上重視から民族的獨(dú)自性重視への思潮の変化として捉えることができる。

(注1)黃富三《林獻(xiàn)堂伝》國史館臺(tái)灣文獻(xiàn)館、2006年、24頁。

◆著者プロフィール:黒羽夏彥(くろは?なつひこ)

臺(tái)灣専門ブログ「ふぉるもさん?ぷろむなあど」、書評(píng)ブログ「ものろぎや?そりてえる」を運(yùn)営。1974年生まれ。出版社勤務(wù)を経て、2014年3月より臺(tái)南の國立成功大學(xué)文學(xué)院華語中心へ留學(xué)予定。

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