Record China 2014年2月17日(月) 22時49分
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臺灣の民族分布を一瞥すると、山地にオーストロネシア系の原住民、平地に漢族系と棲み分けられているように見える。しかし、漢族系の人々が大々的に臺灣へ移住してきたのは17世紀(jì)以降。それまでは平地にもオーストロネシア系の人々が暮らしていた。寫真は臺灣山岳地帯。
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臺灣の民族分布を一瞥すると、山地にオーストロネシア系の原住民、平地に漢族系と棲み分けられているように見える。しかし、漢族系の人々が大々的に臺灣へ移住してきたのは17世紀(jì)以降のこと。それまでは平地にもオーストロネシア系の人々が暮らしていた。
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臺灣の原住民族は言語的に多様なグループから成るが、平地に住んでいた人々は一括して「平埔族」と呼ばれる。こうした原住民のうち、最も早くから漢人やオランダ人と接觸していたのは現(xiàn)在の臺南近辺にいたシラヤ族であり、その中でも新港社(「社」は集落を指す)の人々だったと考えられている。臺南のあたりは現(xiàn)地語でタイオワンと呼ばれており、これが「臺灣」の語源となった。
原住民族は基本的に文字による記録を殘していない。そのため、具體的なことについては不明な點(diǎn)が多い。そうした中、歴史上の記録に固有名詞をもって最初に現(xiàn)れた臺灣原住民が、新港社のリーダー?理加である。日本側(cè)の記録(金地院崇伝『異國日記』)では理加、オランダ側(cè)の記録ではDijka、Dijcka、Dicka、Dychaなどと表記されている。
■オランダの拠點(diǎn)としての臺灣、日中貿(mào)易の中継地に
長崎や平戸といった交易地で最も人気のあった取引品目は中國の絹織物や生糸であった。ところが、當(dāng)時の明朝は海禁政策を?qū)g施していたため、直接の取引は難しい。そこで、日本や中國の貿(mào)易商人たちはタイオワンで落ち合って密貿(mào)易を行い、莫大な利益をあげていた。
そこに參入を図ったのがオランダ人である。平戸(後に長崎の出島)に拠點(diǎn)を置いたオランダ人は日本へ西洋の文物を?qū)恧筏骏ぅ岍`ジが強(qiáng)い。そのため、交易品目にも西洋のものが多そうに思われがちだが、実際のところ、オランダ東インド會社にとって最大の利益源は、中國の絹織物や生糸を日本へ持って來る中間貿(mào)易にあった。
ところで、オランダ人の東アジアにおける根拠地はバタヴィア(ジャカルタ)であり、日本からは遠(yuǎn)い。交易を安定的に行うには中継基地が必要である。そこで、オランダ人は競爭相手であったポルトガル人の根拠地?マカオを攻撃したが失敗してしまい、澎湖島へ退いた。さらに明朝が澎湖島からの撤退を求めてきたため、1624年にタイオワンへ上陸、この地にゼーランディア城やプロヴィンシア城を築くことになる。
■日蘭商人の確執(zhí)に“巻き込まれた”臺灣原住民
オランダ人がタイオワンに新たな拠點(diǎn)を築き、対中貿(mào)易の獨(dú)占を図ったことは、日本の貿(mào)易商人にとって大きな脅威となった。そこで、長崎代官?末次平蔵が派遣した朱印船の船長?濱田彌兵衛(wèi)は、1627年に理加をはじめとした新港社の住民16名を日本へと連れ出した。理加たちを江戸の將軍の面前に連れて行ってオランダ人の橫暴を訴えさせ、あわせて臺灣を?qū)④姢双I(xiàn)上すると言わせるのが目的だった。臺灣原住民が日本の土を踏んだことを記録上確認(rèn)できるほぼ最初のケースである。
オランダ側(cè)としても江戸幕府との関係が悪化すると、平戸貿(mào)易の利権が危うくなってしまう。オランダ東インド會社の臺灣総督ピーテル?ヌイツは慌てて日本へ行き、將軍への拝謁を求めた。しかしながら、末次平蔵の根回しで理加たち臺灣原住民の一行は大御所?徳川秀忠や三代將軍?徳川家光と面會した一方で、ヌイツの謁見はかなわず、彼は失意のうちに臺灣へ戻らざるを得なかった。
理加たち一行は慣れぬ船旅や異國での旅路に疲れ果て、さらに天然痘にかかって途中で5名が病沒してしまった。將軍への拝謁は実現(xiàn)したものの、言葉が通じるわけでもなく、結(jié)局、見世物として珍しがられるに終わってしまった。末次平蔵の畫策も幕閣からは疑いの目で見られており、これといった成果も出せなかった。理加たちは將軍から銀の棒などを下賜されただけで臺灣へ戻ることになる。
年がかわって1628年、濱田彌兵衛(wèi)の船に乗った理加たちは臺灣へ帰り著いた。ところで、腹の蟲がおさまらないのは臺灣総督ヌイツである。総督の命令でタイオワンに入港した日本船の乗組員が抑留され、日本から帰ったばかりの理加たち臺灣原住民11名は國事犯として逮捕、江戸の將軍からの拝領(lǐng)品は沒収された。
彌兵衛(wèi)はいったん釈放されたものの、日本への出航は認(rèn)められない。切羽詰まった彌兵衛(wèi)はゼーランディア城へ向かい、ヌイツ総督との直談判に臨んだ。それでも、ヌイツの態(tài)度には取り付く島もない。業(yè)を煮やした彌兵衛(wèi)はヌイツに飛びかかって取り押さえ、匕首を突きつけた。総督を人質(zhì)に取るという荒業(yè)に出た彼は、自らの優(yōu)位をいかしてオランダ側(cè)と交渉を行い、譲歩を迫った。日臺関係史で有名な濱田彌兵衛(wèi)事件である。その結(jié)果、監(jiān)禁されていた理加たち新港社の人々も釈放された。
彌兵衛(wèi)たち日本人が帰國すると、オランダ側(cè)は報復(fù)のため新港社に対する討伐を行った。理加たちを引き渡さないと村を焼き払うと脅したが、新港社の住民は協(xié)力せず、身を隠した理加たちはそのまま消息をくらませた。こうした一連の行動のため原住民社會の中でオランダ人に対する反感が高まっていることを、當(dāng)時、新港社で布教活動をしていた宣教師のカンディディウスは書簡に記している。
■「あわれで純樸な原住民」ではなかったのではないか
理加が再び姿を現(xiàn)すのは1639年9月のこと。オランダがタカリヤン社と交渉する際の仲介者として彼の名前が出てくる。どのような経緯で理加がオランダ人と和解したのかは分からない。
さらに、オランダは臺灣において拡大させた支配領(lǐng)域を効率的に統(tǒng)治するため、原住民各部族の代表者を集めて地方會議を開催するようになった。1641年4月11日に開かれた第一回地方會議以降しばらくの間、參加者リストの筆頭には新港社の理加があげられている。オランダが臺灣統(tǒng)治を進(jìn)める上で原住民社會からの協(xié)力が欠かせず、理加はその取りまとめを行うポジションにあって重きをなしたことがうかがえる。
理加が歴史の表舞臺に登場したのは、日本とオランダの貿(mào)易利権をめぐる抗?fàn)帳藥啢zまれたからである。ただし、「文明先進(jìn)國」の醜い爭いに巻き込まれた「あわれで純樸な原住民」というステレオタイプな構(gòu)図で捉えるわけにはいかない。オランダ人の進(jìn)出を抑えるために日本人を利用し、それができなくなると今度は原住民社會の意思を取りまとめてオランダ人に対して交渉を行うポジションを確保しようとしたところに彼の意図があったと考えることもできるのではないか。もちろん、彼の言動が記録されていないため、あくまでも推測の域を出ない。少なくとも、相當(dāng)に高度で主體的な政治行動を?qū)g踐できるしたたかで聡明な人物であったろうことは間違いない。
※以上、主に林田芳雄『蘭領(lǐng)臺灣史―オランダ治下38年の実情 』(汲古書院、2010年)を參照。
◆著者プロフィール:黒羽夏彥(くろは?なつひこ)
臺灣専門ブログ「ふぉるもさん?ぷろむなあど」、書評ブログ「ものろぎや?そりてえる」を運(yùn)営。1974年生まれ。出版社勤務(wù)を経て、2014年3月より臺南の國立成功大學(xué)文學(xué)院華語中心へ留學(xué)予定。
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