広東省の村で舊日本軍の弾薬庫(kù)発見(jiàn)―中國(guó)メディア

Record China    2014年3月25日(火) 20時(shí)54分

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25日、広東省清遠(yuǎn)市博物館の文化財(cái)調(diào)査スタッフはこのほど、同市の銀盞坳村の村民が提供した手掛かりを基に、広清高速道路付近で舊日本軍の弾薬庫(kù)を発見(jiàn)し、その詳しい調(diào)査記録を作成した。

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2014年3月25日、広東省清遠(yuǎn)市博物館の文化財(cái)調(diào)査スタッフはこのほど、同市の銀盞坳村の村民が提供した手掛かりを基に、広清高速道路付近で舊日本軍の弾薬庫(kù)を発見(jiàn)し、その詳しい調(diào)査記録を作成した。広州日?qǐng)?bào)が伝えた。

その他の寫真

清遠(yuǎn)県志の記載によると、1939年10月16日、舊日本軍が同省北西部に対する攻撃を開(kāi)始。軍田や獅嶺、銀盞坳などで、舊日本軍と中國(guó)軍が次々に攻防戦を展開(kāi)した。また、1940年5月、舊日本軍は再び同省北部を攻撃した。今回発見(jiàn)された弾薬庫(kù)は、當(dāng)時(shí)、舊日本軍が銀盞坳一帯を占領(lǐng)し、清遠(yuǎn)から銀盞の道路を制圧した際に作ったものだ。

弾薬庫(kù)は道路脇の山の斜面の一番下にあり、入口は草に覆われていた。外から見(jiàn)ると、1メートルほどの入り口しか見(jiàn)えないが、中に入り約70メートルほど進(jìn)むと、約300平方メートルの地下倉(cāng)庫(kù)が広がっている。現(xiàn)地の農(nóng)民によると、同倉(cāng)庫(kù)は舊日本軍が弾薬庫(kù)として使用していた。

現(xiàn)地の農(nóng)民は、子供のころ、入口に舊日本軍の兵士が立っており、村民が近付くと、銃を突き付けて脅されたと話している。(提供/人民網(wǎng)日本語(yǔ)版?翻訳/KN?編集/TF)

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