<遠(yuǎn)藤譽が斬る>中國共産黨が慘殺した中國人は忘れていいのか?――習(xí)近平、ドイツ講演に思う

Record China    2014年4月2日(水) 5時50分

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28日、習(xí)近平國家主席はドイツのベルリンで講演し、「日本の軍國主義が引き起こした悲慘な歴史を中國人は忘れることはない」などと述べた。対日批判を繰り返して國際世論を形成していこうという意図が見て取れる。 寫真は習(xí)國家主席。

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3月28日、習(xí)近平國家主席はドイツのベルリンで講演し、「日本の軍國主義が引き起こした悲慘な歴史を中國人は忘れることはない」などと述べた。対日批判を繰り返して國際世論を形成していこうという意図が見て取れる。

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しかし中國で生まれ育ち、終戦後、中國國內(nèi)で激化した國共內(nèi)戦(國民黨と共産黨の內(nèi)戦)に巻き込まれて家族を餓死で失った筆者としては、個人的にも習(xí)近平のドイツ講演は看過できない。

◆日中戦爭の中國人犠牲者數(shù)はなぜ増えていくのか?

習(xí)近平は「日本の軍國主義が引き起こした侵略戦爭で3500萬人以上の中國人が死傷した」とし、1937年に起きた「南京事件」(中國では南京大虐殺事件)の死者は30萬人に及ぶとした。

 

しかし日中戦爭(中國では侵略戦爭と稱する)における中國人の犠牲者數(shù)は、最初はこんなに多くはなかった。

筆者が天津の小學(xué)校に通っていた1950年代初期、日中戦爭による犠牲者の數(shù)は1000萬人と教えられた。1985年の「抗日戦爭勝利40周年記念」になると、2100萬人となり、そして1995年には一気に3500萬人へと飛躍的に増加するのである。ちなみに、「抗日戦爭」とは「日中戦爭」のことで、中國では「日本軍の侵略に抵抗して戦った戦爭」という意味で「抗日戦爭」とも稱する。

 

この流れから言えば、1995年も「抗日戦爭勝利50周年記念」と稱すべきところだ。

しかし、時の國家主席?江沢民はそうは呼ばなかった。

「反ファシスト戦爭勝利50周年記念」と稱したのだ。

なぜか――。

それは1995年5月にモスクワで開催された「世界反ファシスト戦爭勝利50周年記念」に、江沢民が初めて招待されたからである。

 

周知のように日中戦爭あるいは第二次世界大戦において日本と戦ったのは「中華民國」であって、決して「中華人民共和國」(現(xiàn)在の中國)ではない。中國は戦後(1945年)から4年経った1949年に誕生した國だ。

しかし戦爭中は存在していなかった國を、「日本と戦った國」として認(rèn)めただけでなく、第二次世界大戦で連合國側(cè)の一國として「反ファシスト戦爭」を戦った國としてロシア(當(dāng)時のエリチン大統(tǒng)領(lǐng))は「中國(中華人民共和國)」を認(rèn)めたのだ。

 

江沢民の喜びようは尋常ではなかった。

だからその「反ファシスト戦爭」で中國人の犠牲者はこんなに多く、こんなにまで「反ファシスト戦爭勝利」に貢獻したのだということを強調(diào)するために、一気に「犠牲者數(shù)3500萬人」と増やしてしまったのである。そして95年以降は「抗日戦爭勝利記念日」よりも好んで「反ファシスト戦爭勝利記念日」と稱するようになった。

1994年から始めた愛國主義教育が、「反日教育」へと舵を切っていったのも、この「1995年」である。

◆中國共産黨が慘殺した中國人は「歴史の犠牲者」ではないのか?

 

習(xí)近平は3月28日のこのドイツ講演で、「ドイツのブラント元首相はかつて『歴史を忘れた者は同じわだちを踏む』と言ったが、中國にも『過去の事を忘れず、未來の教えにする』という言葉がある」と述べた。

中國語の原文では、習(xí)近平は「前事不忘、后事之師」という言葉を用いている。これは戦國時代からある中國の戒めの言葉で、「同じ過ちを繰り返さないために、過去に何が起きたかを正視して、それを後世の教えとしよう」という意味である。

南京事件のときに南京市で行われる黙禱や抗議運動のときに、「前事不忘、后事之師」という言葉を書いた橫斷幕が必ず現(xiàn)れている。

 

それなら習(xí)近平に問いたい。

中國共産黨自身が殺戮(さつりく)してきたおびただしい中國人民の命は忘れていいのか?

この人民の命は「歴史の犠牲者」ではないのか?

筆者は1946年から激化した國共內(nèi)戦(解放戦爭とも言う)において中國共産黨軍が食糧封鎖をした長春市にいた。食糧封鎖が始まったのは47年秋からで、48年5月から封鎖が厳しさを増し、數(shù)十萬の市民が餓死した。このとき國民黨の兵士は空輸があったので一人も餓死しておらず、死んだのは無辜の民のみである。

この事実を筆者は數(shù)少ない生存者の一人として記録しているが、中國政府はこの中國語版の出版を許可しない。1988年になると長春に國共內(nèi)戦の犠牲者の碑が建立されたが、そこには「解放戦爭により犠牲になった中國人民解放軍」を弔う文言しかない。犠牲になった一般庶民は「歴史の犠牲者」ではなく、「忘れなければならない存在」なのである。

新中國(中華人民共和國)誕生後も、三反五反運動、反右派闘爭、大躍進、文化大化革命と、中國共産黨によって殺傷された「歴史の犠牲者」は數(shù)千萬人(6000萬人?8000萬人)を越えている。

それは「前事不忘、后事之師」の対象とならないという一方的な論理があっていいのか?

犠牲者の遺族や関係者は、まだ中國の大地で、そして世界の至るところで生きている。その人たちの思いが、どのような形で「歴史の師」となっていくか、中國當(dāng)局はその怖さと重みを知るべきだろう。踏みにじられた無辜の民の魂は不滅だ。

なお、筆者のその思いは『●(上下を縦に重ねる)(チャーズ)中國建國の殘火』で吐露した。

<遠(yuǎn)藤譽が斬る>第29回)

遠(yuǎn)藤譽(えんどう?ほまれ)

筑波大學(xué)名譽教授、東京福祉大學(xué)國際交流センター長。1941年に中國で生まれ、53年、日本帰國。著書に『ネット大國中國―言論をめぐる攻防』『チャイナ?ナイン―中國を動 かす9人の男たち』『チャイナ?ジャッジ毛沢東になれなかった男』『チャイナ?ギャップ―噛み合わない日中の歯車』、『●(上下を縦に重ねる)子(チャーズ)―中國建國の殘火』『完全解読「中國外交戦略」の狙い』、『中國人が選んだワースト中國人番付』など多數(shù)。

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