如月隼人 2021年1月26日(火) 20時(shí)20分
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中韓で「キムチ論爭」が勃発しました。學(xué)術(shù)的な論爭ならよいのですが、この論爭は「不毛だなあ」と思うわけです。その理由をご紹介しましょう。
中韓の間で発生した「キムチ論爭」。中國側(cè)は「キムチは中國から韓國に伝わった」と主張していますし、韓國側(cè)は「キムチは數(shù)千年の間、韓國を代表する食文化だった」などと主張。とうとう1月20日には、中國外交部の定例記者會(huì)見でも関連質(zhì)問が出された。不毛だよなあ。
■論爭すること自體は悪くないのだが
まず、さまざまな食文化の歴史を研究することは、少しもおかしくない。というか、有益です。例えば、和菓子の羊羹は、羊肉なんて使っていないのに、どうして「羊」の字を使うのか。
「羊羹とは古い時(shí)代の中國で羊の羹(あつもの、煮込みみたいなもんですな)だった。しかし、仏僧は肉を食べられなかったので豆を使った。その豆を使った羊羹を鎌倉時(shí)代ごろに禪僧が日本に伝えた」なんて説明を聞くと、なるほどなあと思うし、中國から日本へ文化が伝播したことに、改めて思いを馳せることになります。
問題は、起源論爭や歴史論爭が民族の自尊心に結(jié)びついてしまことなのですよね?!袱铯欷铯欷紊鐣?huì)に古くから存在した」と言えれば、なんとなく誇らしくなる。その程度ならよいとしても「そうじゃない」と反論されると、小馬鹿にされたように感じてしまう。起源への探求とは本來、「歴史の事実を知る」ためのものだから、自尊心とは切り離さなけりゃ、いけないはずなんですけど。
■オリジナルじゃなければ「民族の不名譽(yù)」になるのか
そもそも、「他民族から伝わった」ということは、自民族にとって不名譽(yù)なことなんだろうか。そうじゃないと思います。他民族が持つよい物を吸収できない方が、よっぽど愚かなんじゃないでしょうか。
話は変わりますが、19世紀(jì)の歐州では「ジャポニズム」などと呼ばれる日本美術(shù)ブームが発生しました。きっかけは、美術(shù)関係者が日本から輸出された陶磁器の包み紙として使われていた浮世絵のすばらしさに気づいたことだったそうです。
浮世絵は主に大衆(zhòng)向けの絵畫で、まとまった量が刷られました。江戸時(shí)代の日本はかなり徹底したリサイクル社會(huì)でしたから、古くなってしまった浮世絵は包裝用に使ったりしたわけです。
その、すでに絵畫扱いすらされていないボロい浮世絵を見て、ヨーロッパの美術(shù)関係者は「これはすごい蕓術(shù)品だ」と気づいたわけです。くちゃくちゃになっていて、しかも自分らの絵畫の様式とは全く異なるのに、高い蕓術(shù)性に気づいた。浮世絵の水準(zhǔn)が高かったことも事実ですが、それを見抜いたヨーロッパ人の「眼力」も、並たいていではなかったと思うわけです。美の伝統(tǒng)の底力があったからこそ、見抜けた。
■日本人は「元祖」を強(qiáng)調(diào)する癖を免れているようだ
そう考えれば、感情を絡(luò)めた起源論爭は不毛としか思えない。自分らに固有の文化と思っていた物事に対して「そうじゃない」という説が出されたとしても専門家じゃなけりゃ判斷は難しいのだから「なるほど。そういう考えもあるのですね」程度に思っておけばいいんじゃないのかなあ。
まあ、日本人の場合には、文化関連の多くが海を越えて伝えられたことはほぼ間違いないとの“國民的合意”があるわけで、文化に関して「これは日本起源だ」なんて頑なに主張することは少ない。日本古來と思われる神道にしても、「道教と融合している部分がある」とする説を聞いたって、「そういう面はあるかもしれないなあ」と、冷靜に受け止める方が一般的でしょうからね。
■そもそも「キムチの起源」ってなんだ?
そうそう。「キムチ論爭」ですけど、もう一つ不毛な面がありますねえ。だいたい、古い古い時(shí)代の人々にとって、食べ物の保存は生死にかかわる技術(shù)だった。
穀物ならば長期保存が割と楽ですけど、農(nóng)業(yè)を行う前の時(shí)期には、穀物みたいに長期保存できる食べ物のほうが、むしろ少なかったんじゃないかな。狩猟採集の時(shí)代には食べ物を入手しても、次にはいつ入手できるのか分かったもんじゃない。
そんな中で、「塩を使えば長期保存ができる」なんて知恵は、自然に身に著いたはずです。逆に言えば、長期保存の技術(shù)が拙劣だったグループは滅んでしまい、その子孫は現(xiàn)在まで続いていないでしょうからね。
塩を使って長期保存をすれば、塩加減によっては発酵現(xiàn)象が発生します?!赴k酵をうまく管理すれば、長期保存が可能」といった知恵も、自然に身に著くでしょう。しかも、完全に塩漬けにするよりも、貴重だったはずの塩の量は少なくてすむという“おまけ”つきです。
つまり、漬物はさまざまな地域で発生したと考えるのが自然で、特定の1カ所で発生したと考える方がおかしい。漬物が発生したのも、まだ文字がない時(shí)代のはずですしね。仮にどこか1カ所で発生したのだとしても、場所を特定するのは、ほとんど不可能じゃないかな。
漬物についての「よりよい作り方」はあるグループの人々から別のグループの人々に伝わったかもしれませんよ。でも、外來の「新技術(shù)」が伝わる以前にも、発酵食品づくりそのものは知っていたと考える方が自然じゃないかな。
■常に変化する食文化、どの時(shí)點(diǎn)を「區(qū)切り」にすればよいのか
そもそも、「伝統(tǒng)食」なんて言っても、昔からずっと同じだったなんてことは、まずありません。ある時(shí)期にはゆっくりと、ある時(shí)期には急速にと、違いはありますが、常に変化していると考えるべきです。
例えば、今ならば中華料理と言えば「炒め物」を思い浮かべますが、唐代の文獻(xiàn)を見てもその他の調(diào)理法と比べて炒め物は非常に少なく、次の宋代になっても料理法の主流とは言えないそうです(張競「中華料理の文化史」などによる)。
キムチの場合だって、今では「唐辛子を使う。ニンニクを使う」なんてことが大きな特徴だと思います(使わない種類のキムチもありますよ)。ただ、唐辛子は南米の原産で、日本に入ったのは16世紀(jì)。そして、韓國で唐辛子を使うようになったのは17世紀(jì)の初頭ぐらいとされています。
現(xiàn)代人が、それ以前のキムチに接して「これはキムチだ」と思うかどうか。ひょっとしたら、日本の白菜漬けなんかに、ずっと近く思えるかもしれない。そういうことについて、「相手を論破せねば面子(メンツ)が立たぬとばかりに、シャカリキになって論爭する。いったい、どんな意味があるのか。
これが、私が「キムチの本家論爭は不毛だなあ」と思う2番目の理由です。
最後になりますが、私はキムチそのものを否定しているのではないので、念のため。大変にすばらしい食品だと思います。かつては日本の「キムチ」の主流だった、「白菜に漬け汁で味を加えただけ」なんてキムチは評価しませんが、きちんと発酵させたキムチは、大変すばらしい食品だと思います。自宅の冷蔵庫にも常備していて、特に「今日は野菜不足だなあ」なんて思った時(shí)には、ご飯の上にキムチを乗せて、えごま油とか亜麻仁油をちょいとかけていただきます。これがまた、うまいのなんの。
■筆者プロフィール:如月隼人
1958年生まれ、東京出身。東京大學(xué)教養(yǎng)學(xué)部基礎(chǔ)科學(xué)科卒。日本では數(shù)學(xué)とその他の科學(xué)分野を勉強(qiáng)し、その後は北京に留學(xué)して民族音楽理論を?qū)煿?。日本に戻ってからは食べるために編集記者を稼業(yè)とするようになり、ついのめりこむ。毎日せっせとインターネットで記事を発表する?!钢袊慰諝荨工蛘i者の皆様に感じていただきたいとの想いで、「爆発」、「それっ」などのシリーズ記事を執(zhí)筆。中國については嫌悪でも惑溺でもなく、「言いたいことを言っておくのが自分にとっても相手にとっても結(jié)局は得」が信條。硬軟取り混ぜて幅広く情報(bào)を発信。 Facebookはこちら ※フォローの際はメッセージ付きでお願(yuàn)いいたします。 ブログはこちら
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