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過(guò)去30年にわたる日本経済の停滯と、スポーツ界の躍進(jìn)。この違いはどこから生まれてきたのだろうか。寫真は中國(guó)國(guó)家體育場(chǎng)。
北京で開かれていた冬季オリンピック(以下、五輪)が閉幕した。外交ボイコット問(wèn)題や、ロシアのフィギュアスケート選手のドーピング騒動(dòng)など、いろいろ騒がしい大會(huì)だったが、1972年ミュンヘン五輪の銃撃事件のような特大の不祥事のないまま終了したことで、國(guó)際オリンピック委員會(huì)(IOC)や中國(guó)政府の関係者はほっとしているだろう。
◆東京、北京で最多メダル
この大會(huì)で日本は、金3、銀6、銅9の合計(jì)18個(gè)と、冬季五輪では史上最多のメダルを獲得。種目數(shù)が増えているので単純な比較はできないが、昭和の時(shí)代では1972年の札幌五輪の3個(gè)が最高だったこと、2006年のトリノ五輪でも荒川靜香選手の金メダル1個(gè)だけだったことを思い起こせば、素晴らしい躍進(jìn)と言えるだろう。
躍進(jìn)は冬季五輪だけではない。2020東京五輪(実際の開催は21年だったが…)でも、日本は地元の利もあって金27、銀14、銅17の合計(jì)58個(gè)のメダルを獲得。メダル獲得數(shù)の最高記録を更新するとともに、國(guó)別では5位(金メダルの數(shù)では3位)の成績(jī)を収めたことは記憶に新しい。日本全體の競(jìng)技力が向上している証といえよう。
五輪が世界一を競(jìng)う場(chǎng)ではないサッカー、野球でも、日本(日本人選手)の活躍は目覚ましい。世界的には五輪以上の人気を集めるサッカーワールドカップ(W杯)は、1980年代まで日本はことごとくアジア予選で敗れ、夢(mèng)の舞臺(tái)にすぎなかった。しかし98年以降、日本は6大會(huì)連続して出場(chǎng)し、うち3回決勝トーナメントに勝ち上がった。アジア、アフリカで過(guò)去に3回以上決勝トーナメントに進(jìn)んだ國(guó)は日本とナイジェリアだけだ。
「野球の場(chǎng)合、國(guó)際試合の機(jī)會(huì)が限られているので他國(guó)との競(jìng)技力の比較は難しいが、アメリカ大リーグに所屬する選手の數(shù)が一つの目安になるだろう。1960年代に村上雅則投手がサンフランシスコ?ジャイアンツで活躍した後、長(zhǎng)期にわたり日本人大リーガーは生まれていなかったが、95年にロサンゼルス?ドジャースに入団した野茂英雄投手が事実上のパイオニアとなり、以後日本人選手が続々と太平洋を渡った。そして現(xiàn)在、大谷翔平選手を筆頭に多くの日本人プレイヤーが活躍しているのは周知のとおりだ。
◆低迷する経済との違いはどこから?
バブル崩壊後、日本経済は低迷し、それに比例する形で國(guó)際政治の舞臺(tái)でも日本は存在感を失っていった。社會(huì)全體の活力も失われ、日本人自らが「失われた30年」という自虐的なフレーズを平気で口にする。なんとも情けない限りだが、そんな中でスポーツ選手の活躍は、ノーベル賞受賞者の増加(21世紀(jì)の自然科學(xué)部門の受賞者數(shù)は、米國(guó)に次ぐ2位)と並んで我々を元?dú)荬扭堡皮欷搿?/p>
それにしても、過(guò)去30年にわたる経済の停滯と、スポーツ界の躍進(jìn)。この違いはどこから生まれてきたのだろうか。私はスポーツの専門家ではないし、エコノミストでもない。したがって、あくまで感覚的な言い方になってしまうのだが、「內(nèi)向きか、外向きか」が明暗を分けた理由の一つのように思える。
サッカーを例にとってみると、1993年にサッカー強(qiáng)國(guó)には必須のプロリーグ(Jリーグ)が発足。各クラブは、地域密著を徹底するとともにトップチームに加えて育成年代のチームも保有し、サッカー界のグローバルスタンダードと言える體制を整えた。そしてそこで育った俊英たちは、Jリーグの枠に満足することなく、次々に歐州に渡った。現(xiàn)在、イングランドやドイツなど歐州各國(guó)のリーグには60人を超える日本人選手が所屬し、歐州はもちろんアフリカや中南米など様々な國(guó)から來(lái)た野心あふれる若者たちとしのぎを削っている。こうした外向きの姿勢(shì)は、サッカーに限らず、競(jìng)技力を上げている他の種目にも共通しているのではないだろうか。
◆「鎖國(guó)政策」は內(nèi)向き姿勢(shì)の象徴
翻って経済界。日本のエンタメ産業(yè)が、國(guó)際市場(chǎng)で韓國(guó)に後れを取っている理由として、「日本は國(guó)內(nèi)市場(chǎng)がある程度大きいので無(wú)理して海外に売り込むインセンティブがない。韓國(guó)は國(guó)內(nèi)市場(chǎng)が小さいので、初めから國(guó)際市場(chǎng)を意識(shí)してコンテンツを作っている」と言われる。もちろん自動(dòng)車など、國(guó)際市場(chǎng)で大きな存在感を放っている産業(yè)もあるが、バブル崩壊後、エンタメ同様に內(nèi)向きになっている産業(yè)が少なくないように思える。
そして、社會(huì)全體でも內(nèi)向きの傾向が強(qiáng)まっている。その象徴が、新型コロナウイルス対策として外國(guó)人の入國(guó)を厳しく制限した「鎖國(guó)政策」だ。感染拡大防止のために一定の規(guī)制は必要かもしれないが、「G7で最高の水際対策」と極端な鎖國(guó)姿勢(shì)に胸を張り、國(guó)內(nèi)の感染が広がって水際対策の意味が薄れても維持しようとしたのはいかがなものか。ビジネス往來(lái)の抑制は企業(yè)の競(jìng)爭(zhēng)力を減殺するし、留學(xué)生の受け入れ停止は日本人學(xué)生を井の中の蛙にするとともに、潛在的な日本ファンを取り逃がす結(jié)果につながる。長(zhǎng)い目で見(jiàn)ればマイナス面が大きい。
國(guó)力を長(zhǎng)期的に上げていくには、外向き姿勢(shì)で積極的に海外と交流し、ライバルと競(jìng)い合い、刺激を與え合うのがベストの方法。中學(xué)3年生でバンクーバー五輪に參加するなど、早くから海外勢(shì)と切磋琢磨してきたスピードスケート?高木美帆選手の金メダルの滑りを見(jiàn)ながら、そんなことを考えた。
■筆者プロフィール:長(zhǎng)田浩一
1979年時(shí)事通信社入社。チューリヒ、フランクフルト特派員、経済部長(zhǎng)などを歴任?,F(xiàn)在は文章を寄稿したり、地元自治體の市民大學(xué)で講師を務(wù)めたりの毎日。趣味はサッカー観戦、60歳で始めたジャズピアノ。中國(guó)との縁は深くはないが、初めて足を踏み入れた外國(guó)の地は北京空港でした。
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