清朝末期から民國初期に多くの若者が日本に留學(xué)、「なぜだ?」―中國で文章発表

Record China    2021年10月18日(月) 23時40分

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中國の大手ニュース/ポータルサイトである網(wǎng)易が、清朝末期から民國初期にかけて中國の多くの若者が日本に留學(xué)した理由を考察する文章を掲載した。寫真京都嵐山公園にある中國の周恩來元首相の詩碑。

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中國の大手ニュース/ポータルサイトである網(wǎng)易は17日、「清朝末期から民國初期にかけて、日本は中國を最もひどく侵略したのに、なぜ日本に留學(xué)した者がかえって多かったのか」と題する文章を掲載した。

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文章は、日本に留學(xué)する中國人が多かった第1の理由として、日本は古くから中國文化を取り入れた國だったと指摘した。日本とは中國と親密な交流を続けた國であり、歴史を見ても日本も中國と同様に國が分裂して互いに爭う戦國時代を経験したとも論じた。

文章は日本は明治維新以後、富國強兵を?qū)g現(xiàn)したと説いた上で、日中両國の過去の狀況は似ていた一方で「日本は実に小さいのに、維新の変法によって、実に強盛になった。中國が日本と同じ道をたどって前進すれば、そして中國のように大きな國がいったん強盛になれば、絶対にすごい國になる」が、當(dāng)時の中國の知識人や若者に共通した見方で、日本に行って學(xué)べば日本の経験を會得して自國の救國の道を探し當(dāng)てられると考えたという。

文章は第2の理由として、歐米諸國は遠すぎて交通費も莫大となり、滯在のための費用も巨額だったことを指摘した。清朝が派遣した公費留學(xué)生以外にも多くの私費留學(xué)生がいたが、當(dāng)時の中國か貧しく、費用を最小限にするには、日本は格好の留學(xué)先だったという。

また、日本に滯在する中國人留學(xué)生が増えるにしたがって、後から留學(xué)する者はすでに日本にいる中國人を頼ることができたので、日本に留學(xué)する留學(xué)生はますます増えたと指摘した。

文章は第3の理由として、日本が中國の「革命拠點」になったと指摘した。清朝末期には、體制変革や、さらには要人暗殺の動きが発生したが、いずれも失敗した。そのため、変革運動の関係者は逃亡先に中國から近い日本を選んだ。しかも日本は強大な國なので、清朝政府も日本に人を派遣して逃亡者を捕えることは見合わせざるをえなかったという。同文章は、日本では中國人による先進的な革命団體が結(jié)成され、多くの中國人學(xué)生が日本に行って清朝を打倒する革命闘爭に身を投じることになったと論じた。

なお同文章は、日本が當(dāng)時から侵略主義の國家であり、西側(cè)諸國は中國を金儲けの対象と見なしていたが日本だけが中國を植民地化することを狙っていたと主張。また日本の若者の多くは軍國主義の影響を受け、かなりの部分が「戦爭狂人」になったとも主張した。

同文章は、中華民國が成立した1912年は日本の大正元年に相當(dāng)し、日本ではその後の大正デモクラシーの時代に「軍人が嫌われる」ような風(fēng)潮も発生したことには言及していない。また、日本に滯在した中國人の例として、孫文の寫真を掲載したが、孫文の周囲にいる者は宮崎滔天など、孫文の革命運動を支援した日本の政治結(jié)社である玄洋社の成員であることにも觸れていない。(翻訳?編集/如月隼人

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