【東西文明比較互鑑】戦國時代とギリシャ(2)中華文明の包容力示す荀子

潘 岳    2021年12月24日(金) 16時10分

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戦國時代最後の50年、志士?謀臣達は2大流派に分かれていた。函谷関の內(nèi)側(cè)の秦國では法家と縦橫家が活躍していた。畫像は荀子。中國の儒家思想の代表人物の1人で、「禮法合一」を主張した。(寫真:nipic)

戦國時代最後の50年、志士?謀臣たちは2大流派に分かれていた。函谷関〔河南省北西部の関所〕の內(nèi)側(cè)の秦國では法家と縦橫家が活躍していた。函谷関の外側(cè)の六國では儒家、道家、兵家、陰陽家、名家が活躍していた。斉國の稷下學宮は六國の知識人が集まった場所で、秦國と対峙したもう一つの精神世界だった。この精神世界の領袖こそ、戦國時代最後の儒家の大家で、稷下學宮の祭酒〔學長職〕を3度務めた荀子(紀元前313~同238年)だ。

秦王に「儒」の必要性説く

紀元前269~同262年、荀子は秦を視察した。彼は伝統(tǒng)的な儒家とは違い、秦の政治が暴政だとののしることはしなかった。逆に法家の統(tǒng)治制度を稱賛し、末端の役人が忠実、勤倹で、心を盡くして仕事をしていること、高級官吏が賢明で公徳心を持っていること、朝廷の政務処理が効率的で簡潔なことを褒めたたえた。

しかし、荀子はより重要なことも話した。秦國はそうした優(yōu)位性を持ってはいるが、依然として「王者」の域には達しておらず、その原因は「儒」の欠如にある。ではどうすれば「儒」を備えているといえるのかを考えた荀子は、「威を節(jié)して文に反る〔武力を抑えて禮儀の政治に立ち戻る〕」こと、君子を用いて天下を治めることを提案した。これは後世の「王権、士大夫と天下を共治す」のひな型だ。

荀子の認識では、儒家は統(tǒng)一的な道徳秩序を持っているが、統(tǒng)一的な統(tǒng)治體系を確立していなかった。法家は統(tǒng)一的な統(tǒng)治體系を確立できたが、精神的な道義で欠陥があった。もし秦國の法家制度に儒家の賢能政治と信義、仁愛が加われば、將來の天下の正道になれる。

秦王はこの話に取り合わなかった。

數(shù)年後の長平の戦いは荀子の話を証明した。秦國は趙軍の投降後、信義に背いて40萬人の趙軍を生き埋めにして殺した。たとえ血の雨を降らす戦國時代であっても、これは道義の基準線を踏み越えている。秦國は終始、現(xiàn)実主義と功利主義を頼りとして天下を取ったのであり、仁義と道徳で自ら手足を縛るはずがなかった。

力のない道義と道義のない力は、共に目の前の現(xiàn)実に答えを出せない。

西洋人學者が理解しない秘密

長平の戦いの後、荀子は政治を放棄し、本を書いて説を立て、學徒に教え始めた。彼の思想體系は孟子の純粋な儒學と異なっていた。孟子の「天」は勧善懲悪の義理の天で、荀子の「天」は「天行、常有り。堯の為に存せず、桀の為に亡びず」であり、そのために「天命を制して之れを用ふ」必要があった。これは中國で最初期の唯物主義だ。孟子は王道を尊重して覇道を軽蔑したが、荀子は王と覇を併用すべきだと考えた。孟子は義だけを語って利を語らなかったが、荀子は義と利を共に顧みようとした。孟子は「先王の道〔古代の君主を理想像とする考え方〕」を尊重したが、荀子は「後王の道〔現(xiàn)在の君主の政策に従うべきだという考え方〕」を尊重した。

荀子は非常に有名な2人の弟子を教えた。1人は韓非で、もう1人は李斯だ。彼らは學業(yè)を終えた後、秦に行って遠大な計畫を巡らし、荀子はそのことで悲しんで食事も取らなかった。なぜなら、彼らが儒法を融合させなかっただけでなく、かえって法家を極限まで発展させたからだ。韓非の法家理論は法、術、勢の3大流派を包含していた。一方、李斯は法家の全ての政策體系を設計しており、「焚書坑儒」は彼が提案したものだった。師の荀子が法家の手段を肯定しながらも、終始一貫して儒家の価値観を堅持していたことを彼らは忘れていた。その価値観は、例えば忠義と孝悌の倫理であり、例えば「道に従ひて君に従はず、義に従ひて父に従はず」の士大夫精神であり、例えば政治は王道を根本とし、用兵は仁義を優(yōu)先するという考えだ。法家と儒家は対立して一つになる関係で、どちらが欠けることも許されない。もし法家がなかったら、儒家は構造化と組織化を達成できず、末端社會への働き掛けを?qū)g現(xiàn)できず、大戦の世で自らを強化できなかった。しかし、もし儒家がなかったら、法家は制約を受けない勢力になり、ただその権威體系は完全に標準化、垂直化、同質(zhì)化した執(zhí)行體系になっていた。

しかも荀學は決して儒法だけではなかった。荀子の思想はまさに儒家、墨家、道家の成功と失敗を集成していると『史記』は記している。

中華文明が巨大な苦境と矛盾に直面したときの包容の精神を荀學は最もよく體現(xiàn)している。なぜなら、それは「中道」に従っているからだ。中道の基準は事の道理に有益だという點だけにあり、特定の教條に従う必要はない。今日の言葉でいえば「実事求是」だ。「凡そ事行の理に益有る者は之れを立て、理に益無き者は之れを廃す。夫れ是れを之れ中事と謂ふ。凡そ知説の理に益有る者は之れを為し、理に益無き者は之れを捨つ。夫れ是れを之れ中説と謂ふ。事行中を失ふ、之れを奸事と謂ふ。知説中を失ふ、之れを奸道と謂ふ〔事業(yè)と行動に有益なものはおこない、無益なものは廃止する。これを中事という。知識と學説に有益なものは採用し、無益なものは捨てる。これを中説という。事業(yè)と行動が中事を失うことを奸事という。知識と學説が中説を失うことを奸道という〕」。実事求是の基礎の上に確立された中道精神により、中華文明は完全に相反する矛盾を最も巧みに受け入れ、見たところ結合不可能な矛盾を最も巧みに結合させ、あらゆる二者択一の事物を最も巧みに調(diào)和、共生させる。

中央黨學校の校訓になっている「実事求是」。この言葉は荀子の思想を継承?発揚している(寫真提供:徐祥臨)

荀子は70歳すぎで亡くなった。彼の思想は非常に矛盾していたため、死後の境遇はいっそう複雑になった。彼は孟子と並び稱されたが、儒家が正統(tǒng)になった後の1800年間の中で、儒家各派に尊重されたことはなかった。清の乾隆帝の時代になり、考証學を研究する儒學の大學者たちは、漢代初期の儒學者によって灰じんの中からよみがえった基礎的な重要文獻が、意外にも全て荀子の伝えたものだということに気付いた。

もともと、戦火が燃え盛っていた戦國時代最後の30年、彼は一方で法家の奇才である李斯と韓非を育て、もう一方で黙々と儒學について記して伝授していた。焚書坑儒以降、彼が「私學」を通じてひそかに伝えたこれらの古典だけが殘り、漢代の儒學者によって語られ、あらためて書き記された。

純粋なことをおこなうのは易しいが、中道をおこなうのは難しい。両極端のものに見捨てられ、挾み撃ちされることに常時備えておかなければならない。それでも歴史は最終的には中道に沿って前進する。漢の武帝と宣帝は荀子の「禮法合一」「儒法合治」の思想を受け入れた。続けて歴代王朝も彼の思想に基づいて進んだ。儒法はここで本當に合流した。法家は中央集権の郡県制と末端官僚組織をつくり出し、儒家は士大夫精神と家國天下の集団主義倫理をつくり出し、魏晉唐宋でまた道家と釈家〔仏教〕を融合し、儒釈道合一の精神世界をつくり出した。

特に安定したこのような大一統(tǒng)の國家構造は東アジア全體に広まり、中華文明が強くても覇を唱えず、弱くても分裂せず、延々と続いてきた秘密になった。これをまだ「秘密」と呼ぶのは、大多數(shù)の西洋の研究者が今なお理解していないからだ。

※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「戦國時代とギリシャ(2)中華文明の包容力示す荀子」から転載したものです。

■筆者プロフィール:潘 岳

1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史學博士。國務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中國共産黨第17、19回全國代表大會代表、中國共産黨第19期中央委員會候補委員。
著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時代編 購入はこちら

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